花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【61-2】『睡蓮の長いまどろみ』 宮 本   輝  著  《下巻》

宮 本 輝 さま

暑く長い夏が始まっています。今年は春から一気に真夏の暑さです。汗をかかなければ、身体から毒素は抜けないだろうと、昼間はエアコンを点けないで過ごしておりますが、たまらなくなると、近くの涼しいショッピングモールを、ただ歩くために訪れたりしております。今日は『睡蓮の長いまどろみ』《下巻》についてお便り致します。

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写真を見た瞬間、この美しい花が 清月蓮 と名付けられた蓮の仲間かも知れないと思いました。何年か前『睡蓮の長いまどろみ』を読んだ時の、強い憧れは今も続いております。花芯には既に実が備わり、花の命の核は『因果倶時』の所以をくっきりと見せています。こんなに自身の思い入れ通りの写真に驚きながら、感謝してお借り致しました。

『蓮と睡蓮』の違いは、作中の『美雪』と同じように、言葉のイメージから、私も勘違いをしておりました。この物語に依り明らかになった事柄は、他にもう一つあります。『川三部作』で少し気づき『錦繍』でヒントを得た気分になり、とうとう『睡蓮の長いまどろみ』まできてしまいました。それは『宿命』についての《謎》です。

『生まれながらにもつ容貌、性格、体力、才能、運、それに嗜好』これらが厳然と生まれた瞬間に既にある限り、一人一人に生まれる前から『宿命』と言えるものも備わっているだろう事は、認めざるを得ない真理です。では、生まれる前とはいつでしょう。やはり「過去生」と呼ぶしかない時間軸において、既に備わっていたのです。  けれども、仮に現在、貧乏や、病いや、不運や、悩み苦しみなどに苛まれ続けているとして…それを「過去生」の行いが悪かったからだと捉えるとすると、責任も自覚もない事への腹立ちを感じて、恨みすら抱きます。

結果、捨て鉢になったり、諦めて投げ出したりするかも知れません。何故なら本人は「現生」において、「悪」と言われる事を成した覚えはないからです。心から善良な生き方をしてきたと感じています。ですが、自分で正しいと思う意識の底に「過去生」から蓄えられた「無意識」が沈んでいるのです。   それは「現生」において「宿命の核」のように命に刻まれて生まれてきているのです。それをどうやって割り、砕き、ねじ伏せていったのかが、ここに物語として著されていたのだろうと思います。 

《三千人の私を生きる》という『美雪』の言葉が出て来ます。生きる支えになった言葉です。これは、仏法の《一念三千》に通じる法華経の哲理で、命の中に三千もの、選択、決意、可能性を孕んでいる事を指し、それが自分の意思と行動により、ダイナミックと言って良い位に烈しく、命を新たに「転換」してゆく力を表す言葉として、自分の中で動き出すのです。

不幸な『宿命』の毒薬を、幸せへの秘薬に変える方法。それは、自分の『宿命』の原因を探ろうと、過去から繋がる現在の呪縛に囚われるのではなく、未来に向けて、新しい《因》となるような自分を見つけ出し、未来の《果》を創り続ける事なのです。

蓮に教えられる『因果倶時』とは「今日から明日へ」生きること…未来に幸福をもたらす「因」を、今、作ろうと心に決めた瞬間、そこに同時に「果」が俱わっているのなら「宿命を変えよう」「未来を変えよう」と決意した瞬間に、もう結果はいのちの中に生まれていると言う事でした。この事をを知った時の幸せな気持ちは、少しも薄れず胸にあります。気づかせて頂き『睡蓮の長いまどろみ』は、大きな転機をもたらしてくれました。感謝の気持ちが溢れて、静かにページを閉じました。

 

昨日、西宮まで出かけましたが、行き帰り、車を運転しながら、なんと合計四台の救急車に道を譲りました。多分、この暑さで熱中症の方が続出されておられるのかもしれません。地球は人間の所作の傍若無人さに怒りを持っているかのようです。ご自愛くださいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                          清  月   蓮

 

 

睡蓮の長いまどろみ(下) (文春文庫)

睡蓮の長いまどろみ(下) (文春文庫)

 

 

【61-1】『睡蓮の長いまどろみ』 宮 本  輝 著 《上巻》

宮 本  輝 さま

暑くて寝苦しい日が続きますが、お元気でおられますでしょうか。九州北部を襲った豪雨による土砂崩れは、夥しい流木を橋桁に絡ませ、濁流が民家を襲いました。目を疑うような惨状に現実感を失う程です。被災地に日常生活が戻る日までまた長い時間がかかりそうです。自然災害と闘うだけでもとても大変なのに、国同士、人間同士が戦うなど、本当に愚かなことです。今日は『睡蓮の長いまどろみ・上巻』についてお便り致します。

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 『睡蓮の長いまどろみ』を読み始めて二日後に、この写真に出逢いました。いつも、読み方の順序に秩序がなく、思いつくまま手に取りますのに、本当に不思議なタイミングに驚いております。写真は真っ白な花びらですが、花芯には愛らしい紅色が隠れていそうで とても惹き込まれます。この写真に『父・庄平』の『釣り道具入れ』に隠されていた『女雛』のイメージが浮かびましたので、お借り致しました。

しみじみ感心致しますのは、この題名『睡蓮の長いまどろみ』です。これ以外ないと言う題名をいつも付けられるのは、本当に天才的であられると思います。泥の中で一年の大半を過ごし、夏の初めのたった四日間の為に、蓄えられたエネルギーや、美しさの全てを天に向かって開きながら、その中に既に《実》も備えているこの花は、昔から様々な思惟の対象になりました。確かに、冬の間は「まどろみ」というしかなく、これまで過ごした『美雪』と『順哉』の上に流れた四十二年の月日もそうだったのかと繋がってゆくように思います。

《上巻》を読んでいる内は、どんなに『美雪』の気持ちを探ろうにも、我が子『順哉』をおいて、家を出、新しい人生を探すなど、同感も同情も出来ないと思っていました。たとえ『義父』とのおぞましい《事情や密約》があったとしてもです。それに『順哉』にしても、結婚して、よく出来た『妻・津奈子』や息子までいるのに、何故『秘密のアパート』が必要だったのでしょう……野暮ですね。   小説は自分の中で、現実味が結べなくとも、深い秘め事があるからこそ、読む愉しみに浸れます。映画や観劇、コンサートや古典芸能にしても、自分以外の観客がすぐ側にいる訳で、一人っきりでその世界に浸り切る事は出来ません。小説世界に自分を立たせて、好きなように酔いしれることができるのは、読書の最大の愉しみです。妖しくも美しい…とても好きな物語です。

今回初めて気付いたのは『上巻』には、人間の《性》が、少し常軌を失したかのように、何故あそこまで描かれているのだろう…と言うものでした。男と女の交わり以上の、淫靡 過ぎる性の倒錯をここに著されたのは、多分、人間は実の母親によって育てられなければ、こんな性的嗜好が生じることもある ということなのでしょう。また愛していても妻と別れなければならなかった『父・庄平』や、知らぬ間に家族と別れさせられた『千菜』の上に、振り払えない力で、のしかかったのは一体何だったのでしょう。その力に抗しきれず『千菜』のように死を選んだり『順哉』のように、善き友を得て適切な言葉を受けることができ、生きる力を保ち続ける事もあるのです。『順哉』と『今井』の男の友情には、羨望に近いくらいの清潔感を抱きました。『今井』にちょっと心惹かれてしまいます。 

二人が訪ねた『羅臼港』にいた『カラス』は、細い無線アンテナの先に止まり、無数の槍のような雨に全身を打たれながら、微塵も動かない。そのカラスを『繊細でありながら不羈(ふき)でもある…』と書かれています。この意味は、鈍感で感じていないのではなく、精緻なところにまで強く影響を受けたとしても、それに囚われることなく、何に束縛されることもない…と言うくらいの意味だろうと思いますが『順哉』が、そんなカラスの姿を見て、人間の生き方にも通ずると感じたであろう場面です。私もしっかり心に留めておきたいと思います。

来週は《下巻》を読みたいと思います。それに致しましても、今年の梅雨からの異常な暑さや、かつて無いくらいの雨の激しさは、昔、住んでいた東南アジアの熱帯雨林気候を思い出させます。地球も人々も、なんだか喘いでいるように感じますのは、私の思い過ごしでしょうか。ご自愛くださいますように。どうかごきげんよう

                  

                                                                  清 月    蓮

 

 

睡蓮の長いまどろみ(上) (文春文庫)

睡蓮の長いまどろみ(上) (文春文庫)

 

 

【60】『森の中の海』 宮 本  輝 著   上下巻 

宮 本  輝 さま

息つく暇もないくらい次々ニュースが続きますが、お変わりございませんか。この本を読み始めた頃、北九州を襲った豪雨のニュースが映し出され「何もかも、のうなってしもうた…」と呆然とされているお年寄りに心が痛みました。今日は『森の中の海』についてお便り致します。

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この写真をお借りしようとした時は気づかなかったのですが、写された時に、やはり『森の中の海』に出てくる『大海・ターハイ』の印象をもたれたようです。改めてお借りできる事を感謝してお届け致します。

物語の中に数々の川が、扇の「要」の一点「海」へ向かって、流れ込んでゆきます。途中で合流したり、別れて支流になったりしているのが見える気が致します。そんな映像は、この物語を読むと徐々に浮かび上がってきます。数多くの川とは、物語の中に挟み込まれている沢山の大切なテーマのことです。この作品がとても長いのは、どうしても今の日本の若者に伝えておきたい事、また熟年者には本当の愉しみはこうだと、全て伝えておきたかったお気持ちを感じました。

1997年1月17日に阪神淡路大震災が起こりました。その事をこの作品の軸のひとつにされた事を感謝したいと思います。あの震災は、人々から生活も命も奪い、家を焼き、家族を連れ去り、多くの人を地獄へ叩き落としました。20年の歳月が経ちましたが、その頃、被害に遭われた方々のことを改めて思い出させて頂けました。   普段の生活では見えなかった人間の正体が、異常事態が起こるとあぶり出されることがあります。わが身を省みず、考える前にそばの人を助けようとする人、ただ一目散に自分だけ逃げる人… 『希美子』は夫に引きずられるように、住んでいた街『西宮』から逃げ出しました。そこに残してきた懺悔の心が、おっとりしていた『希美子』の心に火を点けます。そして物語は読み応えのある展開を見せながら進んでゆきます。

『飛騨の山奥の森』に面妖な大木が見つかります。この木は蔦に絡まれ、他の木に行く手を遮られたり、締め付けられたりしながら、幹にはコブや捩れが沢山現れた大木です。何百年もの樹齢のうちに、周りの植物を見事に抱き込んで同化して混じり合い、溶け合っているかのようです。この木は物語の何かを象徴しています。『骸骨ビルの庭』では、戦後に行き場を失った子供達でしたが、ここでは『阪神淡路大震災』で父母を亡くしたり、親の離婚や行方不明によって、寝る場所も頼る大人もいなくなった子供達が『毛利カナ江』の残した家と土地で、『希美子』や、心ある大人達に守られながら成長してゆきました。読み終わった時、とても落ち着いた気持ちになれました。でも、一方で日本の危機とは何かがはっきりしました。

《上は大臣から下は町会議員、村会議員に至るまで、そのほとんどが金の亡者。公務員は事勿れ主義。国民は、人間としての行儀とか教養を積まないまま大人になって、自分たちよりもさらにレベルの低い子供を産んで……この日本て国はもうおしまいね》  この頃、既に書いておられたことが、今の毎日のニュースで証明されています。

『時代背景』は、生きる人々を否応なくある方向に引っ張ります。政治も文化も世相も無関係には生きられません。ですが自分の中の「信」を貫いた『毛利カナ江』は、最期の痛みや苦しみさえ物ともせず、自分の「生を静かに全うしたのです。ここにもまた『風』についてのくだりがありましたが、どんな『時代背景』に立たされても、自分の中に吹く風に負けない生き方をした人の姿を見せて頂けたように思いました。

『マフウ』は元女子プロレスの選手でしたが『典弥』に弟子入りを許され、やっと『作陶』に『自分の風の通り道』を見つけました。体育会系の世界で生きていた『マフウ』は、きっとどんな逆風にも負けないだろうと思います。若い人々の未来が輝き出すのを『大海』はだだ黙して、これからも静かに見ているような気が致します。

日本列島を襲った暴雨の被害が大きくなっています。この瞬間にも家を失ったり、苦労して積み上げたものを全て流される人たちがおられます。自然災害にまだまだ弱い日本の国土です。どうかこれ以上被害が広がりませんように。お元気でお暮らしくださいませ。どうかごきげんよう

 

                                                                     清 月    蓮

 

 

 

森のなかの海(上) (光文社文庫)

森のなかの海(上) (光文社文庫)

 

 

森のなかの海(下) (光文社文庫)

森のなかの海(下) (光文社文庫)

 

 

【59】『避暑地の猫』      宮 本  輝 著

宮 本  輝 さま

やっと梅雨らしくなってまいりました。次は『森の中の海』を読むつもりでおりましたが、もうすぐ貴方が軽井沢へ発たれると思いますと、急に『避暑地の猫』を読みたくなりました。今日は、私にとってとても難解な作品『避暑地の猫』についてお便り致します。

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この写真はとても美しいのですが、無垢から秘め事へと花開く気配を感じます。男と女の命の中に潜む、奥深い『魔』の存在を確かに伝えてくれる妖しくも美しい花です。作品の内容とイメージが重なりましたのでお借り致しました。

この作品は身を固くさせながら読み進めるしかなく、最後の最後まで本来的な救いは感じられず、心の奥に深く沈潜したまま十数年を過ごしております。以前にこの作品から感じていましたことは、未だ消化されず、またぺージを開いてしまいました。《善人》は、ほぼ登場せず、全ての人が、空恐ろしい怯えや戸惑いを読み手にもたらします。しかも、回想しながら語る設定なのに、絶えず現在を感じさせる巧みな書法なので、途中でやめられません。

《読み手が幸福を感じないような小説は書かない》と言われていたのに、何故この小説が生まれたのでしょう。以前も思いましたが「人間の命の自画像」に確かに存在する「影」を施す為に著されたのだろうと理解しております。人間のもつ恐ろしい『魔』というしか無い「心の闇」の全てが、これでもかと現れてきます。最後のだめ押しは、火で焼き殺された『母』のお腹には、赤ん坊までいたということです。離婚して『金次郎』と結ばれる事を現実として捉え、あのように蔑み続け裏切り続けた『夫』との子供です。このことは、精神と肉体には別々の魂が宿っているのかとの思いまで致しました。     

人間の為す罪の究極の悪は人殺しであり、しかも肉親を手にかけるのは、法律でも極悪の裁きを課せられるのだろうと思います。そして犯した人間のその後の生は『底なしの虚無』の中に放り込まれ、二度と浮かび上がることはできません。たとえどのような罪の償いを成そうと『自分が自分を罰する』意識は消えることはないのです。  唯一の救いは『父親』が、恋をしている『息子』の幸せを願って、自分の命を差し出し、全てをわが身に負ってでも助けたかった行為でしょう。『修平』はその『父』の心を無にしない為に『絹巻刑事』や『コックの岩木』の老獪な罠にも陥らず、平静を装い続け『時効』までの十五年間を、這うように生き延びたのです。

『…この宇宙の中で、善なるもの幸福へと誘う磁力と、悪なるもの、不幸へと誘う磁力とが、調和を保って律動し、かつ烈しく拮抗している現象…』

今現在、幸福だと感じていても、半歩先に暗い不幸への入り口が、大きく口を開けているかも知れず、その均衡の中を人は生きているのです。     恐ろしい計画を実行に移そうとしたにもかかわらず、読み手はどこか『修平』を憎みきれず、同情までしてしまうのは、この法則による働きを、絶えず感じ続けていた『修平』の心の迷いを読み取れるからでしょう。避暑地に住み着いた『猫』たちの正体を垣間見せる描写は、『猫』も人も、その場の環境により、差し出された避けられない状況によって、可愛いペットの猫のように生き続けることはできない…姉『美保』も『母親』も『志津』や殺された『金次郎の妻』も、心のどこかに猫を飼い、嫉妬の餌食になり欲望の誘惑に勝てず、自分の《心のまま》に操られてしまったのです。   

解き明かせない闇はあります。この作品から受ける衝撃と難解さとあまりの悲惨さは、読み手を幸福にしてはくれません。ですが 、事件の周りを縁取る別世界のような軽井沢への憧れ、『霧』に浮かぶ『三浦貴子』の清純な愛らしい姿、それらが、ある種の郷愁をもたらして『軽井沢の霧』に、何度も浸りたくなるようです。

近頃、一面曇り空ですが、雲の中の太陽は昼の明るさを忘れていないようです。厚い雲の奥から差し込む陽の光は、木の葉に残る雨の雫を小さく輝やかせています。やがて晴れ渡る日が必ず訪れるのを約束しているようです。お元気でお暮らしくださいませ。どうかごきげんよう

 

                                                                         清 月    蓮

 

 

新装版 避暑地の猫 (講談社文庫)

新装版 避暑地の猫 (講談社文庫)

 

 

【58】『骸骨ビルの庭』 上下巻    宮本  輝 著

真夏のような暑さが続きました。今年は梅雨入りしてから雨が少なくて、湿度が恋しくおもっております。今日は『骸骨ビルの庭』を読みましたのでお便り致します。

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 『骸骨ビル』と聞きますと、寂れて壊れかけた建物が浮かびますが、『英国人が設計した堅牢なビルヂング』で、空襲を奇跡的に免れました。アンテナが四方に出ていたからか、このビルから出てくる子供達が、骸骨のように痩せていたからか、この呼び名がつきました。正しい名称は『杉山ビルヂング』です。この写真に建築物の醸し出す重厚感を感じましたのでお借り致しました。

戦後のお話です。大阪十三で『戦災孤児』や、生活の苦しさから捨てられた『棄迷児』たち29名が この『骸骨ビルの庭』で育てられました。『阿部』と『茂木』の死に物狂いの懸命な努力によって、無事社会人になるまで生き抜いたのです。政府の補助も受けず借金を重ねての生活でした。ですから、庭に作られた野菜畑は、食べる糧を得る為の命懸けの戦いの場です。本の題名が『骸骨ビルの庭』なのはその為 なのでしょう。

『阿部』は、自分を偽善者だと決めつけた役人『M』への意地から『戦災孤児』を自力で育てる決意をします。肺を患っていた『茂木』を救いたい気持ちがそこに絡まり本気になってゆきました。 自己の生活は捨てざるを得ず、生涯独身で通し、孤児たちの養育に心血を注ぎ続けました。ですが月日の経過の後、育てた『夏美』の『嘘』により、マスコミに叩かれ、汚名を着せられ、不遇の内に死んだのです。

世の中は面白い方に傾き、誰かを悪党にして溜飲を下げます。最後まで『夏美』は自分の『嘘』を認めませんでした。キリストを裏切ったユダや釈迦に背いた提婆達多のようです。小さい頃 、人に褒められようとして良い事をしたり、わざと辛い仕事を引き受けている子供は、長じてどんな人間に育つかは、ひとつの判断の基準になります。元来、子供は楽しいことが好きで、嫌な仕事はやりたくないものです。『夏美』と『チャッピー』は正にそんな子供でした。二人の心の底には、恩ある人に『嫉妬』する感情と、期待に添って生きられなかった自分への恥辱に勝てない人間の姿がありました。

『嫉妬』は人のもつ最大の凶器です。この本に前後して「嫉妬の時代」《岸田秀著》を読みましたが、嫉妬の解剖図みたいなものを見た気がします。その抗し難さは、『嫉妬』の相手が立派であればあるほど、その心が抑えられなくなる人間の哀しい性です。絶えずその事を肝に命じておかなくてはなりません。人生の全てを誤らせるほどの威力をもつからです。

ビルを明け渡さなければならなくなった日に『茂木』から成人した『孤児』たちに手渡されたものは、彼らが子供の頃に描かせた『父と母の絵』と『阿部』がノートに書き続けた孤児たちの『幸せを願う膨大な祈りの言葉』が書かれたノートの写しでした。育った『骸骨ビル』に立ち、彼らは亡くなった筈の『阿部』の『存在』を全身で受け止めたのです。

『…優れた師を持たない人生には無為な徒労が待っている。なぜなら、絶えず揺れ動く我儘で横着で傲慢な 我が心を師とするしかないからだ』      戦後の最も劣悪な環境で他者のために出来る限りのことをした『阿部』に対する『報恩』は 、孤児たちの心と体に『魂魄』(こんぱく)を植え付け、たとえ何処にいようと、何をしていようと「誰かのために生きる」ことこそ使命だと刻みつけたのです。それは『阿部』を師として育ったからに他なりません。そんな物語として読み終えました。

近頃降る激しい雨ではなく、シトシト静かな雨が好きです。紫陽花がそんな雨に打たれながら花首を少しうつ向けて思案顔なのが美しいですね。今年も『慰霊の日』がやって来ました。戦争に対する無知は罪だと思います。知らない間に戦争に巻き込まれどうすることもできなくなる前に、一人一人が考えなければなりません。人の心の乱れは言葉に現れ、罵声が飛び、言いっ放しの目立つ世の中は本当に危険だと感じています。ご自愛くださいませ。どうかごきげんよう

 

                                                                      清 月    蓮

 

 

骸骨ビルの庭(上) (講談社文庫)

骸骨ビルの庭(上) (講談社文庫)

 

 

 

骸骨ビルの庭(下) (講談社文庫)

骸骨ビルの庭(下) (講談社文庫)

 

 

【57】『三十光年の星たち』上下巻  宮 本  輝 著

宮 本  輝 さま

お元気のことと思います。六月に入りますと、もう少しで軽井沢に行かれることを思い出し、少し寂しい気が致します。お仕事の効率を考えますと、喜ぶべきことですが。今日は『三十光年の星たち』を読みましたのでお便り致します。

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 曇り空の下で揺れながら咲く赤い花は、このお話に出てくる若い人たちのように見えます。ここには、戦後に夫や兄弟を亡くし、苦しい中で子供を守る為に頑張り通した女たちもいます。彼らは少しの手助けを受けた事で、暗い空に負けず明るく輝いているように感じてお借り致しました。

この物語には、『7時間かかるスープ』『アンティークの時計』『二千年前の蓮の種』『四十六年間毎日続けた柔道の型』『三十数年間に結ばれた連帯の輪』『久美浜に植えられた百年後の森』『何十年も極め続けた染色の技』…こんな途轍もない時間が示されています。その壮大さを思いますと、不思議なのですが、今起こっているつまらないことなど、何も気にならなくなります。『虎雄』がされたような、たとえ認められなくとも無視され続けようとも、そんな事はなんでもありません。ただひたすら今やるべきことに忠実に真っ直ぐ歩くだけです。その向こうにあるものなど今は考えまい。ともかくやってみるだけだと強く思わせて頂けました。強い人になりたければこの物語は優しい支えになってくれます。

この小説は7年前に毎日新聞に連載され、その後新潮社から上下二巻で発売されました。時代も携帯電話やナビが現れ、愉しみながら静かな気分でページが進みました。最初に読んだ時には『佐伯』を恐れながらも心の中で反発ばかりしている『仁志』の様子がおかしくて笑いながら読んでおりました。ですが、途中から、そんな気持ちが『仁志』を通して、次第に姿勢を正すように変わり、物語にこめられた課題に浸ってゆきました。

封建時代の主従関係でもなく、教師と生徒の関係でもない『佐伯』と『仁志』の間に流れる「気持ち」について考えてみました。そこには「師弟関係」と言うに相応しい感情の流れが見える気がします。師である『佐伯』が弟子を見抜くところから始まりますが、その眼力はどこに視点があったのでしょう。『仁志』は次々仕事も変え、経済的にも最悪であったのに『佐伯』が自分の思いの全てを託す程の何があったのかと考えますと『仁志』は、どこまでも正直で自分を飾ることなど微塵もなく『佐伯』の前であくまで裸になっていたのだろうと思います。それが75歳の『佐伯』にはかけがえのない資質だとわかったのです。彼は正直であるばかりではなく、様々なバイトで覚えたり考えたりしたことをしっかり身につけていました。ひとつひとつをいい加減には向き合っていなかった証拠です。それは彼の『父親』が唱え続けた『国家免許をとれ』と言う提言より何十倍も彼を育てていました。

『老プレス工』の言葉も出てきます。『場数を踏め。動け。口を動かすのは体を動かしてからにしろ。数をこなせ。そうすれば自然に体で覚えていく。体で覚えたものは何にでも応用がきく』

題名の『三十光年…』は何故三十年ではなかったのでしょう。作中にも三十年で仕事はできるとありますが、「仕事ができるようになってからが本当の勝負」なのだともあります。そこには最初に書いた通り、地球的時間軸では測れない宇宙のどこかに向かって生きていると考えれば、目先の悔しさや沽券や見栄は埃のようなものだと言われているように思いました。そして最終章に出てくる『三人の師弟関係』は、尊い思いを受け継ぐある方々を私に思い浮かべさせて頂けました。

日が長くなりました。夕方、食事の準備をしてから散歩に出かけます。西陽に照らされますが、今日も一日無事に乗り切れた充実感で、早足で歩けます。随分脚力がついたように思います。お暇が出来ましたら、たまにはラウンドをお楽しみくださいませ。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                        清 月   蓮

 

 

三十光年の星たち(上) (新潮文庫)

三十光年の星たち(上) (新潮文庫)

 
三十光年の星たち(下) (新潮文庫)

三十光年の星たち(下) (新潮文庫)

 

 

【56】『人間の幸福』     宮本 輝 著

宮本  輝さま

真夏のように暑い日が続いたり、少し肌寒かったり致します。たまにハッとして早朝に目覚めてしまう日があります。夜明け前に窓を開けますとひんやりとした風が部屋の中に流れて来て、もう一度眠ろうとしても上手くゆきません。そんな時はそのまま本を読むことにしています。今日は『人間の幸福』を読み終わりましたのでお便り致します。

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この写真は、見ている人を幸せな気持ちにしてくれます。柔らかい色の薔薇が緑の葉に包まれて、建物を這うように昇っています。下から見上げても窓辺から見下ろしても、とても美しく胸が高鳴ります。こんな花に囲まれていたら、きっと人は誰でも『幸福』な気持ちになるに違いないと思いお借りしました。

 

この物語を少し読み進めると、いつもの作品とは違うことに気づきます。憧れるような美しい人や、少し戸惑うような愛も、どうやら登場しそうもない気配です。この物語にはざっと27人が登場しますが、彼らは何処にでもいそうな、貧しすぎも豊かすぎもしない人たちです。大事件が起きない限り人のことを詮索したり、まして付け回したりなどしないでしょう。けれど、起きたのは『殺人事件』です。もし警察に自分が疑われたら厳しい尋問に耐えきれず、犯人にされてしまうかもしれません。そんな危機感から『敏幸』は自分で『犯人』探しを始めてしまい、他人を尾行するまでになってしまいます。『殺人事件』の犯人を追いながら、題名『人間の幸福』について、どこかに結びつく言葉が隠されているだろうと探してみました。意味を曲げないように気をつけて、簡略に書き出してみます。

《異常な寂しさをもつのは、今まで一度も人の為に生きたことがないから》

《ある一定の線より、ほんの少しだけ心根がきれいだったり、賢明だったりするだけで平和に生きていける》

《人を悲しませてはいけない。不思議なくらい、それはきみ悪いくらい、自分に返ってくる》

《他人の噂話が好きな人は、人から聞いた話に自分の想像をくっつけて、本当らしくまた他の誰かに話す》

《火のような人間と水のような人間がいる。火のような人間は激しく炎を上げても、一晩で豹変する。水のような人間は絶えることなく流れ続け、終着点までその役割をやめることはない》

《お前のは、俺のと違っていると腹をたてたり、馬鹿にしたりすることから戦争が始まるのかもしれない》

これらを抜き出してみて少し思い浮かんだことがありました。

それは、今月5日に、ボブディランさんがノーベル文学賞受賞に関して、《自分の楽曲に「文学」と呼ぶべきものがあるか否か》について記念講演をされた事です。ご本人の生の音源を聞くことができ、彼の言葉と語られる声は美しい一篇の詩のように感じました。ですが、彼の答えは「NO」だそうです。何故「NO」かというと《音楽は歌われるためにあるもので、読むためにあるのではない》という考え方でした。心を高揚させ人々に訴えるのは文学と同じですが、音楽は主に人の感受性に訴えるものであるとも述べられていました。彼の歌詞は《…答えは風の中にある…》と結ばれています。

上に書き出した『人間の幸福』の中に書かれた言葉とを読み比べてみると、読み手がそれについて何度も反芻でき、物語に感動しながらも自らの身に感情ではなくはっきりとした定理として示されている事は、文学の魅力のひとつかも知れないと思いました。   人が幸せに暮らす為の、夢のような指南書は簡単ではなさそうです。ここでは『人間の幸福』の基準は、常に『平凡な生活』の中にあり、誠実に懸命に生きる事に尽きると書かれているように思います。万一、非日常的な事件が持ち上がれば、人間がどんな風に動いてしまうか、自分を守るためにどんな思考を広げ、人を疑ったりついには落としめることもあるのです。そんな遠回りをする事はあっても、この結末のように、どんな状況に追い詰められようが、人は『人間の幸福』の為には努力を惜しまない事も理解することができました。

梅雨入りして、紫陽花たちは、解放されたように一斉に咲き出しています。どこを歩いても明るい色が目につくこの時期は、とても心が弾みます。梅雨の合間の散歩をお楽しみくだされば嬉しく思います。ご自愛くださいますように。またお便り致します。どうかごきげんよう。 

 

                                                                        清 月    蓮