花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【50】『小旗』宮本 輝 著  『星々の悲しみ』に収録

宮本 輝 さま

物憂い春の光が射しますと、他の季節より遠い昔が蘇る気が致します。吹き出したばかりの新芽に命の息吹を感じます。いかがお過ごしでおられますか。春はお父様を亡くされた季節。私も同じ時期に父を見送りました。その日、火葬場への道には細いせせらぎの横に蓮華草や芝桜がどこまでも続き、父を見送ってくれました。今日は途中だった短編集『星々の悲しみ』の中の『小旗』を読みましたのでお便り致します。

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 この写真は『父』を亡くした『息子』と『母』が、病院近くの土手で話している時、そばに咲いていた蓮華草です。私にとっても、蓮華草は幼い頃を思い出させてくれる懐かしい花です。昔は、探さなくてもすぐ近くに、桃色の田んぼが広がっていました。そんな頃を思い出させて頂いたこの写真をお借り致しました。

テレビで野生動物の番組を観ていたことがありました。強くて逞しい百獣の王ライオンは、一頭の雄が、数頭の牝とその子供達の群れを引き連れていました。実際に狩りをするのは牝でしたが、その雄々しい姿で敵の攻撃を見張り、たてがみを揺らして周りを威嚇しています。でも、やがて年とったライオンは、体の艶も無くなり、たてがみも所々抜け落ちてゆきます。そして、新しい若い雄にその座を奪われ、だだ静かに何処へともなく寂しく去ってゆきます。その姿は、何故かこの中の『父』と重なりました。

若い頃、勢いがあり、生気に満ちて世間でも実力を誇っていた男。その男が年をとり、経済力も無くなり、運にも見放されてゆく姿は、とても憐れです。自分の『父』のそんな姿は、そばでみているのも辛く、出来れば現実から離れてしまいたくなります。短編『小旗』はご自身のお父上の事を小説にされているのでしょう。読む方も辛いですが、書かれているご本人もどんなにかお辛かっただろうと思います。

『父』が亡くなった日にそばの蓮華草を見ながら『母』と『息子』は『父』の不思議な死を思っています。この時、現実を見つめながら、どこか遠くで起こったことのように感じていたのでしょうか。『父』はこの世からいなくなったのに、二人が座っている場所には、蓮華草がいつもの年と変わらず咲いている。そのことが悲しく不思議に嬉しくもあります。残された者は、それでも懸命に前を向いて生きてゆくしかありません。

『二人』が座っている側で、精神病院の患者達が、朗らかに話しながら歩いています。愛する人を亡くしても、たとえどんなことが起ころうと、彼らはきっと目の前にある仕事、人の嫌がる仕事であっても、懸命にそれに徹していることでしょう。道端で『小旗』を振り続ける彼のように。蓮華草の変わらぬ美しさとその『小旗』を懸命に振る姿。それを目にした時、安らぎに似た思いが、空の青さと溶け合って『父』の死を見送れたのだろうと感じました。

この作品を読んで、自身の父を思い出しました。カメラが好きで、オシャレで、絵を描いたり木彫りをしたりしていた人でしたが、晩年はただ「おおきになぁ、悪いなぁ」が口癖の老人になってしまいました。火葬が終わるまでの時間、父の人生はどんなだったのかと考えておりました。青春を戦争に奪われ、帰ってからは一家を支え、でもサラリーマンが嫌いで、よく会社をズル休みしていた事を思い出しました。この作品を読めば、どなたでもこんな風 に自分の「父」を思い出させて頂けるだろうと思う作品でした。

二階のベランダの上にまで、何処からか風に乗って沢山の桜の花びらが広がっています。車庫には、花びらに包まれた愛車が待っていてくれ、とても幸せに感じます。こうして散り落ちて後も、人を幸福にできる桜はやはり格別の花です。貴方さまにとっても『お父様』は、きっとそういう存在であられたと思います。この季節をお楽しみくださいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                       清 月    蓮

 

 

【49-2】『月光の東 』 宮本 輝著 《その二・『美須寿』の未来 》

宮本 輝 さま

桜の木々を見る度、日本の土壌は豊かで、枝の先まで花をつける力があることに驚きを感じております。自宅の横を走る六甲山グリーンベルトには、山桜と山つつじが同時に咲き始めました。横から眺めると、薄桃色のラインがとても綺麗です。今日は『月光の東』の二通目のお便りを致します。

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 『夫』を喪った報を受けた時、妻『美須寿』の心は、きっとこの写真のようだったと感じます。満開の時を迎えているのに、一人うなだれたまま、月明かりに照らされています。心に描いていた写真が急に目の前に現れ、不思議な気持ちでお借り致しました。

『よねか』と『カラチ』のホテルに同宿して、別れた五日後に『加古』は、死を選んでしまいます。でも『加古』の自殺は、原因がひとつだけではないと感じます。周りの期待に沿う自分を保ち続けることへの、積もり積もった疲れや、内在していた孤独感がそうさせたのかも知れません。いずれにしても『夫の自殺』に「女の影」があった事は、妻『美須寿』を『錯乱』の底に突き落としました。このままでは『蛇の生殺し』のようだと感じています。答えの出ない謎は、心から力を奪ってゆき、新たな出発を阻みます。何故なら、疑心や憎悪の淀む心は、他人の言葉を受け入れられないからです。『美須寿』が、日記に嘘は書かず、自分をさらけ出す事で「淀みの抜けた状態」になろうとしたのは苦しい作業だったでしょう。      「決着」を付ける為に、夫のそばにいた「謎の女」の後姿を追い続ける『美須寿』の心は、優しい『叔父・唐津』と『主治医・安部先生』の言葉で救われてゆきます。その処方箋は…《 疲れたら休む、いつも楽天的である。愚痴を言える相手を持つ。大きな声で「そんな自分が大好き」と叫ぶ 》

その結果、『自分も辛いけれど、息子や娘は、思春期を迎え、どんなに心を痛めているだろう、しっかり守らなければならない』この思いに至ります。とても長い時を要しました。

幼少期から『妹』に両親の愛情を譲って生きてきた『よねか』は、男たちの愛を繋ぎ止めることに命がけで、女の魅力を本能的に弄してしまったのでしょう。蠱惑的な悪女と思われても仕方ありません。比して『美須寿』は、環境にも恵まれ、お金持ちの叔父『唐津』に労られ、求めずとも先に愛されていた。これまで、夫の『不倫や泣き上戸』にも気づけなかったのは、愛情への枯渇感がなかった故なのかも知れません。被害者意識の中、日記を『書き続けることは、それ自体が考えること』であったのです。そして、自分がこんな苦しみを受けるのは、独身の頃『妻子ある男』と関係していたことの『因果応報』だろうか…そう思えるほど被害者意識は薄らいでゆきました。

『よねか』の後ろ姿を追い続けて『美須寿』が、やっと辿り着いた境地には、明るい月が浮かび上がってゆくだろうと思います。未来への出発点を見出した『美須寿』にとって『月光の東』とは「月の沈む処」ではなく「太陽の昇る処」になったのです。記憶から消せない月はあっても、春の夜風に気持ちよく揺れている桜が、今の『美須寿』には、とても似合うように感じましたので、写真をもう一枚お借りしてお届け致します。

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 随分前に、貴方様の親友で主治医の「G先生」の御自宅が、我が家のすぐご近所という事がわかりました。G先生のご家族も、きっとグリーンベルトの山桜や、近所の桜のトンネルをご覧になっていますね。少し嬉しく思いました。花冷えが続いております。ご自愛くださいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                           清 月  蓮

【49-1】『月光の東』宮 本  輝 著 《その一・塔屋よねか について》

宮本輝さま

桜が満開のこんな時期に、初めてお便りを差し上げてから一年が経ちました。春は物憂く過ぎています。どうしてか『月光の東』を開いてみたくなりました。去年、興福寺に阿修羅像を見に行った時、太陽神とされるその美しさの底に、言い知れない哀しさを感じ、同時に月光菩薩の姿が浮かびました。それ以来、胸の中では『月光の東』への想いが燻り続けておりました。ですから、短編集『星々の悲しみ』の途中ですが、今日は『月光の東』についてお便り致します。

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 この写真は静かに燃える月がとても美しく、現在50歳の『塔屋よねか』のような光だと感じましたのでお借り致しました。輝く月は、死に物狂いの末に掴んだ彼女の心のようです。

《塔屋よねかについて》

『ねェ、私を追いかけて。月光の東まで追いかけて』…

この呪文のような言葉が何を意味するのか、自分なりに納得しなければ、何度読んでもこの物語は終わらないと考えています。宮本輝さんは、読者を煙に巻くだけの無駄な言葉は、一文字も使われない事を知っているからです。

『よねか』の母は、結婚して『よねか』を生みましたが、事もあろうに、自分の『夫の兄』と、逃避行の旅を始めてしまったようです。『よねか』を連れて、世間の目から逃れて、周りに見咎められると、住む場所を変えなければならない生活です。安定した仕事も持てず『養父』は穏やかな人でも、ある時期には『酒乱』になり『よねかの母』を陰湿に虐めていました。子供の最大の不幸は両親の諍いです。冬の北海道でも『よねか』は『言語障害と全身が麻痺した妹』を抱きかかえて、夜の道端に立ち、ただ時が収まるのを待っているしかありません。そんな『よねか』が、現実から抜け出す方法があったとすれば、『神秘的架空の世界』を創り出し、その中で自分を生かし続ける事。

しかし自己が確立した頃に『よねか』は現実にたち向います。画廊を持ち経済力があった『津田』に金銭的援助を委ね、代わりに自分の身体を預けたのです。僅か17歳の少女の決意でした。この時、『よねか』に一体何が訪れたのでしょう。

頭の中の思考や、心の整理とは別に、言葉では明確に説明できないけれど、胸の真ん中にある意識。

《私は、これから「修羅」のように生きてゆく。自分の容姿が人より優れていることを利用する。自分と人々を幸せに導ける力を確立する為に。今の不幸から逃れる為に…》      自身にもはっきりと意識出来ないまま、こんな声を胸の内に聴いたのではないか。西から昇り始めた月が『東』に沈もうとする頃、それを人生に例えるなら、自分の生が終わる頃までに、必ずそれを手に入れるから『私を月光の東まで追いかけて』…つまり、『月光の東』とは場所を示すのではなく「人生の終盤」という意味だったのではないか。朧げながらでも、既に少女の『よねか』はこんな漠然とした願いを言葉にしたのではなかったか。「月の沈む東の空まで、私の人生を追いかけて…そして見届けて…」自分を好きでいてくれた男達に残したい意識の底から、この『呪文』は生まれたのだろうと思うのです。

その現れは、思春期に『よねか』が好きだった『合田孝典』との約束を忘れず、彼が『事故死』した後も、懸命な努力で得た莫大な資産を投じ、彼の名を付けた『養護学校』を開設した事にも現れています。また、後年訪れた、少女期を過ごした『親不知駅』の山道で『大きな枯れかけたひまわり』に執着して、持ち帰らざるを得なかった気持ちにもみられます。太陽を追いかけ、太い幹を育て、輝く『ひまわりの花』を咲かせることに努力を惜しまなかった半生。でも今は『朽ちかけたひまわり』に自分の姿を見て、愛おしく感じ、太い幹を切り取ってまで、胸に抱いて持ち帰ったのでしょう。

『よねか』は、一人の女の一生にすれば、多くの男達と肉体関係を持ちました。いつも『狡猾で淫乱』でありながら、決して自分を偽る行動はしなかった。それは、昂然とした後ろ姿に滲んでいて、どのような時も『自己否定』はしなかったのだろうと感じます。『祈りの叶う人間』の芯を持ち続けた姿でもあった。それは哀れなどと言ってはならない。むしろ、その貫かれた強い意志に畏敬の気持ちさえもたらしてくれました。

少しの間ですが、枝に咲く桜の花と、風に舞い、散りゆく姿を目に焼き付けておきたいと思います。ライトでなく月明かりの夜桜も雨に濡れた桜も好きです。美しい季節をお過ごしくださいますよう。『月光の東』について、もう一通 お便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                       清 月   蓮

 

 

【48】『火』宮本 輝 著 『星々の悲しみ』に収録

宮本  輝さま

四月に入りました。気持ちの良い日が続いています。桜の木の枝先が、黒く尖っていたのに、いつの間にか細い枝先が少しづつ丸みを帯び、薄桃色になってゆくのを眺めているこの時期がとても好きです。今年はゆっくり春が来ているようです。今日は『火』を読みましたのでお便り致します。

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 人の心の奥には、この写真のような場所があるような気が致します。誰もいない、誰からも見られたくない、密かな細い階段のような領域です。無意識の行動や癖は、美しいものとは限りませんが、やはり厳然と存在しているものです。でも、この坂道の向こうには灯りが見えます。無意識の先に瞬く光を信じてこの写真をお借りすることに致しました。

 

世の中には本当に様々な人がいて、その習性も理解し難い事があります。『古屋』は、毎夜、一人でマッチを擦り、快感をもってそれを見ているのです。その火に慰められるこの男には理解が及びません。人の癖はどんな時に始まるのでしょう。難しい心理学の事はわかりませんが、それは無意識の領域に忍び寄るある寂しさをもって始まるような気がします。指の関節をポキポキ鳴らさないと落ち着かない癖も、メガネのフチを何度も持ち上げる癖も、それと意識しない内に始まり、いつまでも止まらない。

『古屋』は一度は結婚して女の子がいましたが、今は一人です。自分の娘は姉に預かってもらい、住み込みで働いています。きっといつも寂しかったのでしょう。『古屋』は『啓一』がまだ子供の頃に、家に住み込んでいた従業員でした。それから数十年経って、奇遇にも成人した『啓一』の、電車の向かいの席に座った『古屋』は、50歳になっていました。しかし彼の気味の悪い癖は、未だ彼から離れてはいなかったのです。

癖は、自己顕示欲や劣等感などが複雑に絡み合い、心の寂しさのほころびから人の身体にいつの間にか忍び込みます。私達は誰もがある種の寂しさの中で生き、自分でも気付かぬ癖をもちながら、見咎められないように、身を潜めているのかもしれません。それはずっと昔の、もしかしたら生まれる前からの潜在意識の中に潜んでいて、心の深い層に蓄積されたままで生まれて来たような気さえ致します。それを見定め、自分の心の汚れや弱さを、今この時に清浄なものへと転換してゆかなければと思います。『古屋』は、50歳になってもまだ乗り越えていなかったのですが、彼は『啓一』に『プロレス』を観せてあげ『ソフトクリーム』を奢ってあげる優しさもありました。これからの人生で、彼が蘇る場面が待っているかも知れないと思います。この写真のように、薄暗い階段を登り切れば、先には灯りが見えています。50歳からでも、より豊かな自己の改革へ向かい、心は拓けていくものだと信じられる作品でした。

今年はどこかにお花見に行かれるのでしょうか。近所にとても可愛い桜のトンネルがあります。毎年、その下を飽きずに往復致します。桜の柔らかい色と光が、沢山の人々に降り注ぎますように。またお便りさせて頂きます。お元気でお暮らしくださいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                      清 月   蓮

【47】『北病棟』 宮本 輝 著 『星々の悲しみ』に収録

宮本 輝 さま

お変わりございませんか。 もう3月も残り少なくなりました。いつまでも寒い日が続いておりましたが、やっと春めいてまいりました。眩しい太陽はありがたいです。春は別れのイメージです。若い人達に、また新しい出会いが待っていますように。今日は『北病棟』を読みましたのでお便り致します。

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 この写真は、物語に出て来る『宇宙の精力』が、色彩の美しさの上に現われたようだと感じました。『西病棟』の窓から、このようなひらけた景色は見えなかったでしょうが、地球に迫る『宇宙の精力』は、何処にいたとしても、漏れること無く及んでいます。元気な時は美しいと感動できても、自分の力が弱っている時は体に迫って来るような、跳ね返せないような圧力を感じることがあったと記憶しております。美しい輝きの大空からそんなことを感じましたので、この写真をお借り致しました。

 

貴方が芥川賞を受賞されて、「さぁこれからだ」と言う時に、肺結核が見つかり、入院を余儀なくされ、後にその頃を題材にした作品を幾つかお書きになりました。実際にお会いした時には、愉快な入院生活の経験談もお聞きしましたが、心の中には動かぬ不安や寂しさや、同じ病棟の方の死を間近に見守られた経験もお有りだったのかと想像しております。

『尾崎』の病室の真下で暮らす『栗山さん』は58歳で、何十年も病いと闘っています。穏やかな『ご主人』がお見舞いに来ています。『ご主人』は、雨が降っているのに長い時間、『中庭』に佇み、『栗山さん』が色とりどりのセロファン紙で作った『影絵』を、辛抱強く見ています。   影絵の題名は『宇宙の精力』です。「星や花や鳥や人間」が登場しているとありますが、影絵のあらすじは書いてありません。見ていた『ご主人』にもよくわからなかったようですが、このような長い闘病生活を経験した人でなければ、創り出せなかった物語があったのでしょう。内容を想像してみますと…

地球上のありとあらゆる物は『宇宙の精力』に満たされて生きています。人間もその中の小さな一粒である限り、逃れることはできないのです。そして『宇宙の精力』は、止むことなく『降り続く雨』のように、全てを覆い尽くしています。生物も月や星も例外なく『宇宙の精力』の下に生きているのです。人間だけは、そのことに逆らおうとしたり、いつまでも若くいたいと願ったりします。それは人間を、進歩のレールに載せることもできるのですが、科学がどんなに進化しようと『宇宙の精力』を消すことはできません。「鳥」は木の枝で、死ぬまでの時間を囀り、大空を旋回して海を渡ります。「星」は何億光年も変わらず無数の運河のように瞬いています。「月」は宇宙の見張り番のように、目を細めたり見開いたりしているかのように、柔らかな光を投げかけてくれています。このような宇宙に厳然とある約束事に気づけば、死はもはや怖いことでも、恐れるものでもないのです。『栗山さん』は、生きている今の時間、自分の肺がまだ空気を吸っていられる時間を大切にして、残された命を愛おしく生きているのだと感じていたのでしょう。死はもはや『栗山さん』にとって、宇宙に帰ること。だから、「どうか心配しないで、悲しまないで、私は大丈夫…」そんなことを、影絵を通して『ご主人』に伝えたかったのかもしれないと思いました。影絵の物語を想像しながら、片方で、『尾崎』こと『宮本 輝』と言う作家が、まだこの世で遣り残した「使命」があること。それを自らがお感じになられていること。それ故に、生き抜く為の『宇宙の精力』を、穴の空いた両肺に吸い込み、眠れるだけ眠り、好き嫌いを言わず食べ、とうとう病いをねじ伏せられたのだろうと思いました。

今日は、雨で柔らかくなった、人が通らぬようなあぜ道で、土筆を沢山積んでみたいような気持ちがしました。ハカマを外して、甘辛く煮付けて、お茶を飲みながらゆっくりと食べたいと思うような午後でした。またお便り致します。ご自愛くださいますように。どうか、ごきげんよう

 

                                                                          清 月    蓮

【46】『西瓜トラック』宮本  輝 著  『星々の悲しみ』に収録

宮本 輝さま

お元気でお暮らしのことと思います。今朝、何気なく『宮本輝の本』をめくっておりました。『自己分析』の項を読んでいますと、同時に6篇の連載を抱えておられた時期があったことが記されていました。流行り言葉で表すと神業です。『我慢強さ』などと仰られていますが、一文字一文字書くしかなく、魔法の方法はない…と思い入りました。今日は短編集『星々の悲しみ』の中の『西瓜トラック』を読みましたので、お便り致します。 

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昔は、何処にでもあったこの写真のような原っぱには、泡立草がはびこり、夏の盛りなのに、いつの間にか芒の穂がそこに混じります。このお話の場面の描写には、ぴったりの一葉だと思い、お借り致しました。

 

高校生だった頃『土屋』は、自己主張をあまりせず、流れに身を任せ、特に強く大学にいきたいとも思わず、『父』の裏工作を感じながらも、地元の市役所に勤め始めました。誰でも働くと、何処かで溜まったガスを抜きたくなるものです。『土屋』は『珈琲専門店』で、そんな時間をもつ習慣が出来ました。そして、どんなに平凡に見えようとも、人間にはガスを抜く以上に『烈しい歓び』の時間を求めるものなのでしょう。高校生の彼は『バイト』をしたお金を貯めて、リュックを担ぎ、海辺の町や村に向かって旅をしていました。ひた走る列車の窓から、海が現れる瞬間に、無上の『幸福感』に包まれるのです。群青色の海が展けた時、空想の扉が開き、自分だけの歓びと満足感が彼を包みこみます。そんな彼が思い起こしたあの夏の日…

西瓜を積んだトラックで『 東舞鶴』からやって来た『男』が、トラックの番を『土屋』に任せて訪れたアパートは、故郷に住んでいた『女』との、情事の場所でした。トラックの『男』の隠すことのない、自分の身体を絞ったタオルで拭く情事の後始末を盗み見ながら、『土屋』を襲ったのはなんだったのか。小さな子供のいる家で行われたであろう事は、高校生の『土屋』には、想像を超えたものだったのでしょう。性欲を満たしたい『男』と、それを受け入れざるを得ない自分の体を知っている哀しい『女』の性は、どこか、寂しさを伴い『土屋』に忘れ難い記憶として残りました。    そして数年後、そのトラックが、もしかしたら、あの原っぱに、また来ているかもしれないと思った瞬間…昼休みが、あと10分しかなくとも、もう一度会おうと、市役所を飛び出しバイクを蹴って走った『土屋』の胸に去来したのは、青い海原に浮かぶさびしい女のアパートの『漁火』のような灯りでした。    性の波の寄せ返しに、ゆらゆら揺れる人間の『男』と『女』の暗闇に瞬く欲望の光。生と死の狭間に浮かぶ人間の宿業の灯り。それはまるで熟れ過ぎた『西瓜』が、ほんの少しの空気の揺らぎで爆けるしかないのに似た、人間の性欲のように見えます。熟れ過ぎた『西瓜』の中には、形を成さないドロドロとした赤い液体。その深い果実の底を、はっきりと見極められなかったあの頃の自分に戻って行く為に、『土屋』はひとつの禊のように、あの夏の日の出来事を確かめておきたかったような気が致しました。

日が長くなったのを感じます。私の苦手な寒さが去り、暖かそうな明るい日差しが降り注いでいますが、風は思ったより冷たく、まだ寒さは完全には去ってくれません。季節の変わり目、どうぞご自愛くださいますように。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                      清 月   蓮

【45】『夢見通りの人々』  宮本  輝著

宮本 輝さま

三月に入りました。貴方さまにおかれましては、古希を迎えられ、お元気にお仕事をされておられますこと、心よりお慶び申し上げます。本当におめでとうございます。私はポカポカと太陽を浴びるのが好きです。晴れた日は、近所をただゆっくり歩いております。どうか、のんびりした時間もお過ごしくださいますようお祈り致しております。今日は『夢見通りの人々』を読みましたので、お便り致します。

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 青空に向かって花弁を開き、精一杯両手を挙げているチューリップ達は、『夢見通りの人々』のようです。夜の場面が多いお話ですが、最後まで読み終わると、何故か、この写真が似合うと思いました。とても色彩が美しく、思わず笑みが溢れそうなのでお借り致しました。

『夢見通りの人々』の住人たちみんなは、ざっくばらんで、直裁的です。どの人もこの人も、自分の気持ちを迷わず言葉や行動に直ぐ表してしまいます。読んでいる間中、ニヤニヤが止まりません。まだ観ていないこの映画の映像がクッキリと浮かび上がる気が致しました。躍動感に溢れ、商店街の夜の街灯や人影までもが浮かび上がる描写に感嘆しております。今日は登場人物の「女の人たち」に目を向けて書いてみたいと思います。そこには、様々な衝動が起こした行動を、現実のものにしてしまう力強さを感じました。

年老いて自分の余命を悟った『トミ』は、血の繋がりのない『春太』の優しさに触れ、残りの財産を彼に上げようと行動します。『太楼軒の娘・美鈴』は、育ての親の方が、実の親より好きだとはっきりと言い、外交官になる為に『アメリカン・スクール』に入ります。『時計屋の息子』と逃避行に出た『理恵』は、好きな相手でも、子供の父親にはしたくない意思を固めて実家に戻ります。美容院の『光子』は、かまぼこ屋の二階に下宿している『春太』が、自分に寄せる想いを知りながら、肉屋の元ヤクザ『竜一』に男を感じています。そしてそれは自分には受け入れ難い道であろうと考え、誰にも黙って、故郷へ帰って行きます。スナック『シャレード』の『奈津』は、永遠に手に入れられなくとも、美しい自分でありたい気持ちと、自分の美意識に適う、若くて美しい男を追い求める事をやめません。   この商店街に住む「女の人たち」は、自分をしっかり見つめ、同時に未来を見ています。そして、その未来に向けて、迷いなく行動しています。出来そうで難しい。でも、それに向かい昂然と決意して行動を起こすのです。小さな商店街の片隅に、こうして生きる女達がいるのは、頼もしい。その女達を見つめながら、『春太』は、人の事を思いやり、自分の不甲斐なさを自覚しながら『詩』を書き溜めています。まだ頼りないけれど、ひたすらこう信じているのです。『詩こそ文章による最高の芸術だ』と…そしていつか自分の詩集を出そうとお金を貯めています。難解な言葉を使わない、生涯に一冊だけの詩集の為に。

私の育った時代のせいにするつもりはありませんが、まだ自分の中で何も確立出来ていない時期に、いつの間にかという感覚で母親になって、今日まで疑問も持たず生きて来たような感覚に、今頃になって気付いています。ですから、この中の「女たち」はとても輝いて見えました。大阪ミナミの片隅の商店街は、今日も、こんな「女たち」が逞しく生きているのでしょう。

世の中は毎日毎日、驚くようなニュースに満ちています。心が塞いでしまうこともよくあります。その上、同年代の有名な方々の訃報が届いたり…でも、自分の足元からしか何も出来ないと言い聞かせて、自分の立ち位置を考える日々です。またお便り致します。ご自愛下さいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                       清月 蓮