花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【56】『人間の幸福』     宮本 輝 著

宮本  輝さま

真夏のように暑い日が続いたり、少し肌寒かったり致します。たまにハッとして早朝に目覚めてしまう日があります。夜明け前に窓を開けますとひんやりとした風が部屋の中に流れて来て、もう一度眠ろうとしても上手くゆきません。そんな時はそのまま本を読むことにしています。今日は『人間の幸福』を読み終わりましたのでお便り致します。

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この写真は、見ている人を幸せな気持ちにしてくれます。柔らかい色の薔薇が緑の葉に包まれて、建物を這うように昇っています。下から見上げても窓辺から見下ろしても、とても美しく胸が高鳴ります。こんな花に囲まれていたら、きっと人は誰でも『幸福』な気持ちになるに違いないと思いお借りしました。

 

この物語を少し読み進めると、いつもの作品とは違うことに気づきます。憧れるような美しい人や、少し戸惑うような愛も、どうやら登場しそうもない気配です。この物語にはざっと27人が登場しますが、彼らは何処にでもいそうな、貧しすぎも豊かすぎもしない人たちです。大事件が起きない限り人のことを詮索したり、まして付け回したりなどしないでしょう。けれど、起きたのは『殺人事件』です。もし警察に自分が疑われたら厳しい尋問に耐えきれず、犯人にされてしまうかもしれません。そんな危機感から『敏幸』は自分で『犯人』探しを始めてしまい、他人を尾行するまでになってしまいます。『殺人事件』の犯人を追いながら、題名『人間の幸福』について、どこかに結びつく言葉が隠されているだろうと探してみました。意味を曲げないように気をつけて、簡略に書き出してみます。

《異常な寂しさをもつのは、今まで一度も人の為に生きたことがないから》

《ある一定の線より、ほんの少しだけ心根がきれいだったり、賢明だったりするだけで平和に生きていける》

《人を悲しませてはいけない。不思議なくらい、それはきみ悪いくらい、自分に返ってくる》

《他人の噂話が好きな人は、人から聞いた話に自分の想像をくっつけて、本当らしくまた他の誰かに話す》

《火のような人間と水のような人間がいる。火のような人間は激しく炎を上げても、一晩で豹変する。水のような人間は絶えることなく流れ続け、終着点までその役割をやめることはない》

《お前のは、俺のと違っていると腹をたてたり、馬鹿にしたりすることから戦争が始まるのかもしれない》

これらを抜き出してみて少し思い浮かんだことがありました。

それは、今月5日に、ボブディランさんがノーベル文学賞受賞に関して、《自分の楽曲に「文学」と呼ぶべきものがあるか否か》について記念講演をされた事です。ご本人の生の音源を聞くことができ、彼の言葉と語られる声は美しい一篇の詩のように感じました。ですが、彼の答えは「NO」だそうです。何故「NO」かというと《音楽は歌われるためにあるもので、読むためにあるのではない》という考え方でした。心を高揚させ人々に訴えるのは文学と同じですが、音楽は主に人の感受性に訴えるものであるとも述べられていました。彼の歌詞は《…答えは風の中にある…》と結ばれています。

上に書き出した『人間の幸福』の中に書かれた言葉とを読み比べてみると、読み手がそれについて何度も反芻でき、物語に感動しながらも自らの身に感情ではなくはっきりとした定理として示されている事は、文学の魅力のひとつかも知れないと思いました。   人が幸せに暮らす為の、夢のような指南書は簡単ではなさそうです。ここでは『人間の幸福』の基準は、常に『平凡な生活』の中にあり、誠実に懸命に生きる事に尽きると書かれているように思います。万一、非日常的な事件が持ち上がれば、人間がどんな風に動いてしまうか、自分を守るためにどんな思考を広げ、人を疑ったりついには落としめることもあるのです。そんな遠回りをする事はあっても、この結末のように、どんな状況に追い詰められようが、人は『人間の幸福』の為には努力を惜しまない事も理解することができました。

梅雨入りして、紫陽花たちは、解放されたように一斉に咲き出しています。どこを歩いても明るい色が目につくこの時期は、とても心が弾みます。梅雨の合間の散歩をお楽しみくだされば嬉しく思います。ご自愛くださいますように。またお便り致します。どうかごきげんよう。 

 

                                                                        清 月    蓮

 

【55】『不良馬場』宮本 輝 著   『星々の悲しみ』に収録

宮本 輝 さま

お元気でおられますか。真夏のように暑い日が続きます。今からこれでは、今年の夏が思いやられます。梅雨が近づいておりますが、あまり豪雨にならないよう祈るばかりです。今日は『不良馬場』を読みましたので、お便り致します。

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 木々の間で、深い緑に光を遮られて咲く花は『寺井』の心のようです。『寺井』の肺に空いた『空洞』は、遅々として閉じず、社会からも会社からも忘れられたように感じています。どうすることも出来ず、隔離された病院のベットの上で、一刻一刻を耐えるしかありません。この花はそんな心のように寂しそうに健気に咲いていて、心惹かれましたのでお借り致しました。

この短編の中に少し書かれている『西宮球場』は 今はもうありません。ガーデンズという広くてとても近代的なショッピングモールになりました。楽し気にゆき過ぎる人々は幸せすぎる顔をしているように見えて、いつもふと立ち止まってしまいます。また、門戸厄神駅近くの『病院』は、私の知人や友人が、度々入院していたので、何度も訪れた病院だろうと思います。仁川の『競馬場』も、今は新しくなりましたが、横を走る中津浜線は毎週のように、車で通る道路です。

アメリカへの転勤を約束されていた直前に『寺井』は肺結核に罹り、実家に近い病院に入院しなければならなくなりました。妻は母との『嫁姑の争い』に我慢できず、自分の実家のある東京に仕事を見つけて、帰ってしまいました。見舞いにはニヶ月に一度しか来なくなります。学生時代からの友人『花岡』は、これまで一度も見舞いには現れず、初めて『花岡』が見舞いにやってきた日から、この物語は始まります。『花岡』は 軽いゲームのつもりで『寺井』の『妻』と情事に堕ち、さすがに見舞いには来にくかったのです。『寺井』は、多分その事を察しているのだろうと思います。

『寺井』は、商社マンだった頃、『相手の弱点をじんわり刺し抜くような皮肉っぽい口調』の人でした。二年間の闘病生活で 、彼は『落ち着きと優しさがこもった』口ぶりに変わっていました。ここで宮本輝さんは、さりげなく、病いに苦しんで自暴自棄になったり、諦めたりしないで耐え忍ぶ事がもたらす人格的な進展について書かれているように感じます。この病棟に集まって来た人は、運が良いとも思えず、裕福な人もいそうにありません。ですが、苦しみを共有して相手を思いやる心が育ち、人に優しくなり、相手の喜ぶことをする人ばかりです。その事に気付いた『寺井』は、今まで悶々と考え、悩み抜いていた自分の人生の目標や価値に、まるで『憑物が落ちた』ように何かが抜けてゆくのを感じます。『こんなのに やられてたまるかよ』と自分の胸を叩き 、生と死の格闘に目覚めたのだろうと思いました。

降りしきるこぬか雨に、ぬかるんだ競馬場。そこで起こった最後の直線コースの悲惨な事故。二頭の馬がもつれ合い、一頭が叩き潰されてのたうち、血を吹き出して倒れます。こんな残酷な描写には目を覆いたくなりますが、最後にどうしても書かれていて欲しい事のように思います。それは 確かに友と妻の「不実の報い」を連想させるからです。馬の脚が折れた最後の描写は凄まじく『寺井』の心の中を 垣間見たように感じます。そして一緒に観ていた『花岡』の心には、火のついたように踊り狂い、崩れおちた馬の姿が、たとえ何処へ行こうと、不気味な陰影で付いて回わる気がします。萎えてしまった500円札を握りしめていたあの老人の姿と共に。せめてそうでなくては救われません。

先ほど  荒れ狂うような激しい雨と雷がしばらく続きました。夜の雨は少し不安ですが、今は昼間の熱や埃をすっかり流したようで、外へ出ますと、湿気を帯びた清々しい香りが致しました。どうかゆっくりおやすみくださいますように。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                         清 月  蓮

 

【54-2】『葡萄と郷愁』 宮 本  輝 著 《 角川文庫ー解説について 》  

 

宮本  輝さま

お元気のことと思います。今週は次の作品についてお手紙しようと思っておりましたが、先週の『葡萄と郷愁』の「解説」に少し疑問があります。角川文庫の『葡萄と郷愁』の最後に、連城三紀彦さんが書かれていた「解説」なのですが、今日はそのことについてお便り致します。

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 この写真は日本海ではありませんが、波のうねりと光に、いつか見た『幻の光』の舞台『曽々木の海』に通じるものを感じましたのでお借りしました。

何故『幻の光』かと申しますと『葡萄と郷愁』の「解説」の冒頭で、その事に触れられていたからです。

この「解説文」は、とても研ぎ澄まされた文章だと感じました。その中で少し思ったことについて書いてみます。

連城さんは、佐渡の日没後の海で『幻の光』に遭遇されたかもしれないそうです。それは《残照ではない、空自体がもっている不思議な明るい光》とあります。ですが、作品の中の『幻の光』は、空や、雲間や、海と空の間の光のことではなく、海上に見える強い《光の塊》のような輝きであったという記憶があります。私の勘違いだったでしょうか。いつか、海の上に、そこだけキラキラした強い光線に、まるで射抜かれたような海の輝きを見た覚えがあります。読み手は実に様々な自分の体験から、物語の内容を解釈するものだと、改めて思います。

また、読み進めますと、宮本輝さんの作中の実際の場所を訪れてみたくなったり、夢中で読んでいる途中で、出てくる食べ物を無性に食べたくもなることについて書かれています。けれど、このような実体験を喜ぶのは「宮本輝観光客」だとの指摘がありました。感動した物語の地を、この目で見てみたいと思うのは自然の欲求だろうと思います。せめて作品を辿る旅人、位の言葉にして頂ければよかったように感じます。

最後に、もう少し解説を読み進めますと、こんな文章に出会います。

《人を風景のように見ると言う、僕が最近になってやっと得た目を、実は宮本さんは子供の頃から既にもっていた…》というものです。

本当にそうなのでしょうか。人が『風景』を見るとき、対象物から少なくとも一定の距離を取らなければなりません。そうしなければ見えないからです。しかもある意味、無機物のように周りの人間を見つめる必要があります。宮本輝さんはそんな子供だったのでしょうか。  私にはどうしても、子供の頃に、そんな見方をされていたとは思えません。心にとまった朧げな映像や、何故かそこだけ鮮明な記憶の断片が、大人になってから、それらを蘇らせ、血が吹き込まれたのではないかと思っております。  確かに宮本輝さんの作品には、多くの登場人物が出てくるものがありますが、その中の誰一人にも、作り物の無機物な要素を露ほども感じないのは、人を「風景」として見るどころか、その人間の内部に深く潜り込み、息を吹きこみ、血を通わせておられるからだと思うのです。ほんの端役みたいに登場する人物にまで、その人独特の性格を読み手に感じさせて、実際に目の前にその像が現れるほどです。それをエッセイの中で「憑依」と仰っています。ですから、人間を『風景』などと思われているとの記述に疑問を感じました。   プロの人にしかわからない表現なのかもしれませんね。  宮本輝さんの小説は、書き出す時に一度その人物を「風景」のように客観視したり、性的な普遍性に静かな目を保ちながら、胸の中の登場人物への愛情を包んでいた薄皮を、少しづつ剥がしながら、とても自然に書く行為へと繋がってゆくのだろう想像致します。勝手なファンの願いかもしれません。

それにしてもこの解説文は、見事にこの物語を「ひと房の葡萄」と結び付け、作品に構築されたもの…地球上の時間の距離と、地理的距離と、男と女の愛情に賭ける距離を見事に解き明かし、私の前に見せてくださいました。まるでデパートの贈答品の箱に入ったキズ一つ無いマスカットを連想する程に正確で、納得のゆくものでした。

世界はめまぐるしい程に、激しく変化しているように感じます。言葉の品格に欠ける発言が、日本の政治を司る方々から毎日のように飛び出すのは、とても恥ずかしく悲しい気が致します。暑さに向かう時期に入りました。ご自愛くださいますように。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                         清 月  蓮

 

【54-1】『葡萄 と 郷愁』 宮 本 輝 著

 

宮本 輝 さま

暑くもなく寒くもないありがたい季節がやってまいりました。入梅までのこの時期は、清々しくて生き返るように感じます。毎日の散歩が楽しくなりました。今日は『葡萄と郷愁』を読み終わりましたのでお便り致します。

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 この写真は物語の中の『アンドレア』に捧げたいと思います。闇に咲く紫の花は、彼女の短い人生に浮かび上がった深い悲しみを映し撮っているように感じてお借りしました。この方の写真は、生前の父の写真に似ています。初めてそれに気づいたのは、ぼんやりの私ではなく姉でした。

物語は『東京』と『ブダペスト』の時間の推移と共に進みます。『ブダペストのアギー』と『東京の純子』の二人が重大な決断をするまでの物語です。時間と場所が、国の事情の違いが、交互に現れ、捻れ合って、もう一つ別の味わいをもたらしてくれます。主旋律ではないのかもしれませんが、読み終わり、心に浮かびましたことを書いてみます。これはとても文学性の濃い作品です。

幼い時期に母を亡くし、悲嘆にくれてお酒に潰れた『父』を守り、逞しく生き抜く『アギー』は、孤独と苦難の生活に耐え、今『おとぎ話』のような『アメリカでの豊かな生活』を目の前にして迷っています。決断の時が迫ります。『郷愁』に包まれて暮らすことを選ぶか、夢を叶える為に現在を捨てるかの選択のようにみえますが『アギー』は、現在の自分の生活の中に『希望』があるか、ないかの答えを探しあぐね、迷っていたように思います。けれども、その選択すら与えられなかった『アンドレア』がすぐそばにいました。   『アンドレア』は早朝の『地下鉄』に飛びこんで命を終えたのです。その直前まで、周りのクラスメートにお金を貸してあげたり、電話をかけて『さびしい』と訴えています。全ては、仲間と一緒にパーティに誘われたり、ワインを飲んで喋ったりしたかったのです。ですが級友たちは彼女を『石の女』と呼び合い、挨拶以上の距離には近づきませんでした。身体が貧弱で学歴もない『ゾルターン』なら、自分を愛してくれるかもしれないと『アンドレア』は恋人のふりをしますが、それも見破られ、唯一、書き続けていた小説も、才能などかけらもないと言われます。『父』は共産党幹部で祖国からも逃げたくとも逃げれず、行き場をなくしてしまったのでしょう。

『寂しさ』は、大勢の人が自分の目の前にいるのに、一人ぼっちだと感じた時に、絶望に変わるのかもしれません。希望を断たれた『アンドレア』の自殺は、彼女の生まれた時より、もっともっと以前の『何千年の過去』から、彼女の中に『地下鉄の音』をもたらしたように思います。人は生まれて物心ついた頃、心の中にある孤独に既に気づいていて、幼い頃、幸せであったとしても、避けることは出来ず、忍び寄って来るものです。『アンドレア』に比して、『純子』の幼馴染の『いつ子』は、両腕を失くし、もっともっと孤独であったでしょう。でも明るく笑顔で懸命に努力して、自分の未来を現在に引き寄せたのです。そこには『いつ子』を愛する「両親と幼馴染」の存在がありました。そう思いますと、対照的な『アンドレア』に、いたたまれなさを感じて、たまらなくなりました。

近頃山火事が多発しています。乾燥と強風がもたらす惨事に心が痛みますが、出火の直接の原因は殆ど人の不注意だとのことです。山に木がなければ水も蓄えられず、川にも水は流れません。大切にしなければと思います。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                       清 月   蓮

 

【53】『私たちが好きだったこと』  宮本  輝 著

宮本 輝 さま

ゴールデンウィークも終わり、休みを楽しんだ人も仕事に追われた人も、日常を取り戻しました。日本がこうして平和である事が本当に大切に思います。今日は『私たちが好きだったこと』を読み終わりましたのでお便り致します。

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 チューリップたちは太陽に向かって精いっぱい花弁を開き、全てを自分の中に受け入れようとしています。昼間を明るく過ごし、夜には花弁を閉じて、更に明日への力を溜めているかに見えるこの時期の花たちに、逞しさを感じましたのでお借り致しました。

この物語は映画化されているそうですが、未だ観ておりません。新鮮な現代風の配役もいいなァ、今なら…と夢想しておりました。『ロバ君』はあの人『愛子』はあの女優さん『曜子』は…と決めていきましたが、肝心の『与志くん』が決まりません。個性が強過ぎても、ワイルド過ぎても、美し過ぎても、甘過ぎてもピッタリきません。こうして、勝手な夢想と共に読んでいましたら、とうとう十四章がきてしまいました。ここを『凌いで』静かに読み進めるには結構な精神力が要りました。この物語は、恋人だと信じていた相手と、うまく結ばれなかった物語として読みました。結ばれる以上に意義を見出した賢い人、もしくは尊い使命を貫いた二人のお話かも知れません。

『与志くん』は、懸命に『愛子』の為に学費を工面したり、『不安神経症』の発作に備えて、通学の送り迎えまでして、恋人としても良好に見えたのに、ある時期に『愛子』は『与志くん』より経済力のある医者のもとへ去ってしまうのです。その事が決定的になった時の『与志くん』の落胆や、疎外感や、孤独や、寂しさは、どれ程だったかと思うと、やり切れなさでいっぱいになります。

一度も人の期待や思いを裏切らず生きてきた人はいないでしょう。知らずに人を切り捨てていたりする事もあります。しかし身近な人が実際に容赦のない裏切りにあったらどうでしょう。数年前、息子から、一番の信頼をおいていた友に、裏切られたと言うしかないと打ち明け話を聞かされました。その時は、どう頑張って考えてみても、悔しさと情けなさに襲われ、可哀想で仕方ありませんでした。はっきり相手を憎んだと思います。『ひでぇことしやがる』…けれど、時間が経ってみると、相手にも相当な理由があった筈ですし、息子にも至らないところがあったのだろうと思えるようになりました。それより何より、この裏切りがもたらした力が、少しは息子を強く育ててくれたように思います。何故なら「母ちゃん、俺はサ、全てを受け入れてやり直してみるよ」そう言ったからです。

『与志くん』も、今では微笑みながら、自分の心根が綺麗で、人の為に何かをしたかった純粋な頃の自分を、とても愛おしく感じているようです。『愛子』も無事に医師免許を取得して『アフリカ難民医師団』に参加します。二人の間の『エレベーターの行き違い』は、偶然ではなく、何らかの結ばれ得ない理由の、必然の結果だったのかも知れません。何かを懸命にしている人や、人の為にお金を遣う事など、暑苦しいだけで、めんどくさい。関わると損害を被るか、自分のための時間も邪魔されます。そんな人も大勢いる中で、この物語は、確かな清涼感をもたらしてくれました。胸の内に涼しい風が吹き抜け、溜まった血栓を見事に洗い流してくれたように感じたのです。そして、最後まで読み終わった途端『与志くん』にピッタリだと思う男優さんが、急に目の前に浮かんできました。

近頃、出かけようとしますと、黄砂が車のフロントガラスを覆っていて、水で洗わなければ危険な程です。洗濯物も外には干せません。海の向こうからの黄砂は、ゴビ砂漠タクラマカン砂漠からもやって来ているのでしょうか。地球の砂漠化がこれ以上進まなければ良いのにと願っております。春の雨はありがたいですね。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                      清 月  蓮

 

【52】『蝶』宮本  輝 著  『星々の悲しみ』に収録

宮本  輝 さま

季節は流れる雲のように過ぎてゆきます。気温が上がるにつれ体調が上向いていくのを感じております。もう初夏になりました。今年の春は沢山の筍を頂けました。瑞々しい大地の恵みに雨が欠かせないようです。今日は短編『蝶』を読みましたのでお便り致します。

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 『蝶』を読んでいて、好きだったこの写真が浮かんで来ましたのでお借り致しました。命の源から離れ、既に地面に落ちているのに、なお美しくまるで生きているようです。この花たちは、風に転がったり、吹き上げられたりして美しい舞を見せてくれるかもしれません。理髪店『パピヨン』の壁一面の『蝶の標本』も、電車の振動で生きているように翅を震わせます。

『蝶』の読後感を書くのをグズグズしておりました。何故ならこの作品は、短くとも私にとって、とても大切な問題を孕んでいたからです。極 普通に読むと、悲しい結末が暗示されています。孤独な理髪店『パピヨン』の『主人』は、自分の嗜好に従い、欲望を止められず、次々『蝶』を捕獲して自らの満足の為に、標本にしていたと読めるからです。そして、その罰として、彼は採集の旅の何処かで命を落とし、二度と帰ることはない…しかも、電車が高架の真上を通る深夜に、標本にされた蝶たちが一斉に震え出し、恨みの声なき声を上げている結末を読みとる事も出来るからです。

人が幸せに生きる為には、決してしてはならないことがある…というのは、宮本輝さんの他の作品にもたくさん見受けられます。幸せになる為の警告と受け止められる人の「死」も描かれています。ですが、私はずっと考え続けたにもかかわらず、どうしても『パピヨン』の主人が、そんな罪に当たると思うことが出来ませんでした。既に持っているのに、同じ『蝶』を何匹も集めたことには、とても憤慨しましたが、毎日、夜遅くまで『蝶』の標本の埃を払い、手入れをして愛しんでいた様子が描かれています。理髪店の仕事も丁寧で、人柄も良さそうで、とても親切です。『パピヨン』の主人は、罰を受けたのでしょうか。それは彼の行為が「因」となった故の過ちの「果」なのでしょうか。    そんな事を考えながら、またこんな言葉も浮かびます。  《現在の因が未来の果を生む》…他の作品の中で、教えてくださったこの哲理がとても好きで、心にいつもあります。書くことをグズグズしておりましたのは、この作品から『主人』の決定的な肯定を表す言葉を見つけられなかったからです。そこで…私なりにお話の続きを想像を致しました。こんなお話です…

パピヨン』の主人は『蝶』の採集旅行の途中である山奥に向かいます。その時、朝陽の降り注ぐ葉陰に、頼りなげに揺れる幻の蝶を見つけました。美しいその色は、いつか夢にまでみたものです。けれど、蝶に見えたのは、ひとりの娘の着ていた上衣の短めの袂でした。驚いて近づき、彼は娘を見たのです。その瞬間、娘の横顔は蝶の翅より透明な輝きで彼を捉えました。娘の話す声は、物言わぬ蝶の標本からは、けっして得られない沢山の発見を、彼の心にもたらしました。自分の仕事も忘れ、自分の家に帰る事も忘れ、彼はその娘が一人で、懸命に額に汗していた仕事…その地方に伝わる染色の仕事…に心を奪われ、手伝わずにはいられなくなります。それは草木から糸を染めるとても大変な力仕事です。今まで、この世で最高に美しいと思い込んでいた『蝶』の標本の上にあった鮮やかな色や形が、その織物に現れていたことに息をのみます。その時、やっと気づいたのです。蝶を捕獲するよりも、自然の美しさを源にして、何か役に立つ物を創造することにこそ価値があるのだと言うことに。   蝶の生死と同じく、人間の生死も、危うい闇から明るい場所へと、絶えず彷徨っています。いつどこで闇が明けるかは、その人の命に必ず刻まれています。人を愛することや 友人を大切に思うこと、仕事に忠実な努力をして暮らしている人には、それに気づくチャンスが、必ず宇宙から降りてくる。この短編を読み『パピヨン』の主人も、きっとそうであったのだと信じていたいと思いました。

連休中は如何お過ごしでおられましたでしょうか。夏の暑さや寒いくらいの日が交互にやって来て、安定致しませんし、世界も騒がしく、不安に襲われることがありますが、努めて冷静にいたいと思っております。お元気でお暮らしくださいませ。どうかごきげんよう

 

                                                                       清 月   蓮

【51】『星宿海への道』 宮本  輝 著

宮本 輝さま

お元気でおられますか。いつも寝るまでの時間はニ階で長編を読み、昼間は隙間を見つけて、短編や別の長編を読んでいます。暖かい風が吹き、不穏なニュースさえ無ければ、気持ちの良い毎日です。今日は『星宿海への道』を読み終わりましたのでお便り致します。

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この写真は、私の心の『星宿海』です。 物語に登場する『しまなみ海道』からの写真ではありませんし『黄河の源流』からこぼれ落ちる湖でもありません。けれど、ここに浮かぶ島々を見た時の記憶とこの写真にとても神々しいものを感じました。この風景には、陽光を浴びたり翳ったりしながら、島の木々が『星』になり、海の波光が『星』になるような感動を確かに感じましたのでお借り致しました。

この物語を読んでゆくにつれ、胸の中に、涙ではない水が溜まってゆくのを感じました。その水は引く事がなく、キッチンに立っても、胸の中に満ちています。この水の正体を表せる言葉が、今は未だ見つかりません。宮本輝さんの『長篇』を読む時、広大な舞台、迫る問いかけ、謎の行方、会話の愉しみ…それらが物語いっぱいに溢れています。感動した気持ちについて、何か書こうと考えますと、焦点を絞って自分なりに掘り下げるしかありません。知識に基づく掘削機は持ちあわせず、スコップで少しずつ掘るしかありません。この物語には「命を賭して息子を愛した母と、母の愛を感じ続けて生きた息子」に照準を当ててみました。

『母』は空襲で大怪我をして、息子『雅人』の命を守るために物乞いになりました。橋の下の小屋に住み、莫大な借金を背負い、自分で両目を刺してさえ、免れようとしたにも拘らず、身体を売ることを余儀なくされてしまいます。こんな劣悪な環境の中で、何故 『母と子』が誰の目にも、この上なく『幸せ』に見えたのでしょう。母と子の姿は、すべてを剥ぎ取られても尚、愛情に溢れていました。地上の男女の恋や、清らかな初恋 …そのような「愛情」とは違った次元で存在し、月日の中で色褪せることなく『息子』の心の真ん中にずっとあり続けました。

成人した後に『雅人』が考案したゼンマイ仕掛けの『亀の親子のおもちゃ』は『母亀』にはゼンマイが無く『子亀』が懸命に『母』の背に這い上がる間、首を振り続ける『歩けない母』と、その首に喰らい付いていた息子『雅人』の姿です。母の死後も、時も場所も越えて生き続ける『母と子』の愛情。探しても探しても、この世では、もう見つけられない『母』の姿は『ポプラの並木』の向こう側から『雅人』を惹き寄せていました。彼は迷う事なくそこへ漕ぎ出し、安心して『星の筏』に乗り、幼い頃の『母』の元へ消えたのです。それは自殺を意味するのでもなく、事件を暗示する状況も残さず、ただ母の元へ向かったのでしょう。愛した筈の『女』とやがて生まれて来る自分の『子供』を捨てたのでもなく、胸の中の水が喉元までせり上がり、どうする事もできなかったように感じました。

途中で、鋭い『異族』と言う言葉が出てきます。これは『母』を喪くし、ひとりぼっちになり、他家の子供として生きた『雅人』が、常に感じ続けていた言葉だったのでしょう。誰にも過去を打ち明けられず、知られることを常に怯えて暮らす闇をもった自分には、誰一人「同族」と思える人間はいなかった。『母』と死に別れてからの『雅人』は、現実を生きることは出来ず、死ぬ事も許されず、ただ時をやり過ごしていたのでしょうか。    誰でも心の隅に、人とは同化出来ない孤独を抱えて生きています。幼少期から青年期に、孤独な世界で生きるしかなかった『雅人』にとって「母なる海」への舟出は、光り輝く美しい処への出発だったのかもしれません。読み終わった時、エッセイ集『いのちの姿』に書かれた『小説の中の登場人物たち』の最後の一文が蘇りました。

《…灼熱と強風など意に介さず、こんなものがどうしたといったふうに小さな竜巻と竜巻のあいだを歩きつづけて消えていったあの青年に、私は憑依する術を知らない》

近頃、悲しく感じますのは、被災地から他の地域ヘ避難した子供達を虐める学校内のニュースが流れる事です。本人にはなんの罪も無いのに、どうして周りにそんな心が湧くのでしょう。いじめを受けた彼らが、自分は周りに溶け込めない『異族』なのかもしれないと感じる事を思うと、とても悲しい思いが致します。一人でもその子たちに近づいて、優しく接してくれる人がいてくれることを願うばかりです。どうかお元気でお暮らし下さいませ。またお便りさせて頂きます。どうかごきげんよう

 

                                                                  清  月     蓮