花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【67】『草原の椅子』宮 本 輝 著 《上・下 巻》

宮 本  輝 さま

いかがお過ごしでおられますか。季節の変わり目は、体調に思いもよらない悪さをすることがございます。壮健であられますようお祈りしております。今日は『草原の椅子』を読みましたのでお便り致します。

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この写真を見た瞬間『ウルタル峰』をつんざき『ディラン峰』を刺す、鋭い『雷』を見たように感じました。雪解けを迎えた『カラコルムの峰々』を、一瞬浮かび上がらせたであろう烈しい稲光は、自然からの警告のようです。この物語に書かれております『日本と日本人』への両断の刃(やいば)のようにも思われましたのでお借り致しました。

『日本人』と『日本という国』が、少しづつおかしくなっているのではないかとの疑念は「阪神淡路大震災」の前後から、私自身の胸にも湧き出しておりました。そんな折に、どこかしらに怒りさえ含まれたようなこの内容は、関西弁で柔らかい表現になっていますが、やはり鋭い打擲であると合点がいったのです。

題名『草原の椅子』の穏やかさにたどり着く、最後の最後まで、確かな透察による容赦のない言葉が『憲太郎』と『富樫』の会話などに次々と出てきます。こんなにはっきりお書きになって、ご本人の身に何か圧力がかからないだろうかと心配になった程でした。日本の現状に押し潰された時代を生きる人々の姿が、ここで浮き彫りにされたのです。お書きになられました時より、既に二十数年も経った現在でも、読み返す度、ますます酷くなる現実に驚きを感じております。

きっと書かれている内容は、実際に起きた不当な事件や、世の中の出来事に対する実感を根底にされていたのでしょう。書ききってくださいましたことで、読み手自身の生き方や、恐れに立ち向かわねばならない時の、決意の根幹となったであろう気が致します。

『感情で人生の大事を決める』人間力の底の浅さ。『本当の大人』とはどのような人物を指すのかとの提示。『嫌になったからやめる』ような人間は、再起不能と思える時に、自分の信ずるものを捨てるとの考察。『顔と腹の違うやつ』は、企業の中でも邪魔にしかならないとの判断。『私利私欲と嫉妬』ばかりが渦巻く底なしの悪循環の中で、本来の『心根』をもぎ取られそうな『日本人』への警告。『人間、いい気になったときがおしまい』との確かな示唆。   虐待やいじめや莫大な借財への勇気ある対処。『この国を汚うしているのは政治家と土建屋と役人』であるとの指摘。『人情のかけらもないものは、どんなに理屈がとおっていても正義やおまへん』との断固とした見解。…     他にもまだまだ出ていますが、平易な言葉とおかしさも伴う場面として書き記されていたにもかかわらず、急所を見事に突かれていたと思い入りました。

こんな難題ばかりの中、登場人物達は、心ある友と知恵を出し合い、自然にお互いを助け合って生きてゆきます。あまりにも遠いと思われた道は、日本と同じ面積の『タクラマカン砂漠』を目指し、自身の生命力に喝を入れたいとの切実な願いとなって物語は進んでゆきます。一緒に旅をしているかの様な描写が、とても愉しく、時に笑いをもたらしてくれます。気持ちのいい読後の清涼感が、現在の世の中への憤慨や、情けない忿怒の熱を冷ましてくれているように思いました。

涼しく過ごしやすくなったと思っておりますと、今日は夏のような暑さです。来週は富山「高志の国文学館」での、対談のご講演をなさいますので、お手紙は控えさせて頂きます。会場の熱気が、私のところまで届くよう願っております。ご自愛のほど、この季節の富山を、存分にお愉しみ下さいますよう願っております。どうかごきげんよう

 

                                                                   清  月    蓮

 

【66-2】『朝の 歓び』 宮 本  輝 著  《下巻》

宮 本  輝 さま

お元気でお暮らしのことと思います。朝夕は寒いくらいの日もあり、日中は夏のようです。上着を着たり脱いだりしております。花々も姿を変え、気持ちのいい時期です。今日は『朝の歓び』《下巻》についてお便り致します。

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この写真は『大垣老人』が『お墓参り』に向かった小道に、人の目を逃れるように咲いていただろう彼岸花のように感じました。紅く燃えていた頃の自分の過ちに赦しを請い、贖罪を終えた心の象徴でもあるように、今はただ静かにやさしさを秘めて咲いています。重ねて、若くして亡くなった『Kさん』の生まれ変わりにも思われます。物語のイメージにとても合うと感じましたのでお借り致しました。

人には一面では済まされない「表と裏」があり、それだけでもすまない「多面性」すらあります。現実では、この人は親切で正義感に燃えた人だと信じ、永く付き合っているうちに、思いもよらない冷淡さを見ることもあります。そのような時、 大抵は失望したり、騙されたような気持ちに襲われ、その人から離れてしまうことが多いものです。この物語の中には『大垣老人』の「多面的」な過去が『手紙』の章から著されています。

この章だけでも、ひとつの小説のような生々しさで迫って来ます。愛情とは一体なんでしょう。愛するとはどのような行為を指すのでしょう。『親と子』が『同じ相手』を愛し、運命に翻弄され、互いに奪い合い、のたうちながら辿り着いた先とは、どんな場所だったのでしょう。

そんな問いかけは、人は愛によって幸福にも不幸にもなり得る事、我欲だけが存在する愛もあり、相手への独占欲は、限りなく燃え上がる時もあるのだと思い知りました。それでもやがて歳をとり、冷淡で自分勝手な『本性』をねじ伏せようと生きてきた『大垣老人』に、切羽詰った『ゴルフの場面』で、思わず不正を為した事により、消えずにいた醜い自分を露呈することになったのでした。

人は、自己顕示の欲求からだけでなく、贖罪としての告白の希求があります。自分の過去を曝け出し、信頼できる相手に伝える事で、自らを弾劾したいと思うのです。そして自分と関わった人々の墓に詣で、手を合わせることで、区切りをつけたいと思うのは、死期の近づきを感じる年齢には自然な行為だと実感致しました。

ここでは、酷い行動をして非難され 、家族にさえ見放される悪事をしたとしても「絶望するな」とのメッセージを感じます。時が経ち、粘り強い相手への詫びの繰り返しと、心からの気遣いにより、固まった憎悪はやがて溶解し、人間の心奥に眠る「赦す」という境地のドアは必ず開くのです。そして『手紙』を読んだ『良介』と『日出子』にとっても、ひとりの生きた証を感じた事により、新たな関係の拡がりをみせることとなりました。

読み終わった瞬間、胸に満ちた『歓び』は 、確かに新鮮な『朝の 歓び』と言うに相応しい静かで豊かで暖かいものでした。長い物語を思い返しながら、自分の過去を振り返りますと『あとがき』に記されていますように 、これまでの出来事が、いくつもの『かけら』となって浮かんでまいります。そして、それらはゆっくり『火花』のように静かに燃え尽きてゆくようです。確かな『朝の 歓び』を感じる手立ては、自身の心の変革にあるのを読み取れた物語でした。『息子』との穏やかな関係を築く事が出来た『大垣老人』のように。

空気が澄み渡り、美しい空や涼しい風を感じますと、地球の平和と人々の安らぎを祈らずにはおれません。政治の世界も目まぐるしい変化が次々現れます。テレビやマスコミの報道に流される事なく、候補者本人と政策の確かさをよく研究して、冷静に判断したいと思います。お仕事が思うように はかどられます事を心より願っております。どうかごきげんよう

 

                                                                      清  月     蓮

 

【66-1】『朝の歓び』宮 本  輝 著   《上巻》

 宮 本  輝 さま

虫の音が力を増してまいりました。命の限り、力の限り、鳴き競っているように感じます。いかがお過ごしでおられますか。温かいお茶が美味しくて、そばに置きながらの読書は、夜の愉しみです。今日は『朝の歓び』《上巻》を読ませて頂きましたのでお便り致します。

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 この写真を撮られた方が、何度も現地に赴かれ、シャッターをきられたであろう沢山の写真の中の一枚です。『ぼら待ちやぐら』のそばで『日出子』は、妻を亡くした『良介』を待ち『良介』は、四年前に別れた『日出子』に会えないものかと、辺りを見回していた場所です。「待つ」ことの寂しさと忍耐を現しながら、物語の情景が浮かぶこの写真をお借り致しました。

『朝の 歓び』は、1992年9月から1993年10月まで、「日本経済新聞」に連載されました。その頃、沢山の企業戦士の方々が、通勤電車の中や、会社に着いてからの少しの時間に、この小説を読まれていた様子を想像致しますと、なんだか微笑ましい気が致します。誰でも一度は今の会社を辞めて、自由気ままに暮らしてみたいと思うでしょうし、妻以外に関係を持てる女の人のことを夢想するものす。そして長い休暇を、贅沢な海外旅行に使ってみたいとも思うでしょう。見事に具現されている物語を、きっと密かに愉しまれたことでしょう。大人の恋愛だけでは終わらない、誤解や、欲望や、嫉妬や、疑惑を孕みながら、沢山の硝子の『かけら』のように輝きながら、お話は進んでゆきます。

《上巻》の『かけら』の中のひとつに『パウロと両親』について書かれています。 イタリア・ボジターノに『パウロ』は住んでいて『日出子』が『パウロ』に「また会いにくる」と約束をしたのは、『パウロ』が六歳の時。彼は『精神薄弱児』で生まれ、現在十九歳です。今『日出子』は『良介』に背中を押されて、急な崖の上に建つ『パウロの家』に向かっています。

そこで見たものは、絶えず「貴方を愛している」と信号を送り続けながら、常に『朗らか』でいることを貫いてきた『パウロの両親』の姿でした。朗らかでいるための血の出るような辛抱。ご両親の『ガブリーノさんとその妻』にだって、きっと『パウロ』が寝静まった苦渋の夜が、幾夜もあった筈です。十九歳になった『パウロ』は、自分の仕事を懸命にこなし、ひとりでバスに乗って、仕事場へ行けるようになりました。その姿が『日出子』と『良介』にもたらしたものは、今までのつまらない焦燥や我儘や迷いを見事に吹き飛ばす荘厳な感動だったのです。

目の前に現れた愛情の実像は、人の心を浄化し、出会った人の生き方にまで勇気を与えます。『全身を打つ雨』のように、全ての穢れたものを洗い流す力をもっていました。揺るぎない子への想いに触れる時、いのちの限りない可能性と尊厳に、途轍もない感謝の気持ちに包まれます。

それに致しましても、『良介』と『日出子』の性の行為の描写は瑞々しく、美しく、それでも尚『生前の妻』を思い出す『良介』の心の深淵があり、男と女の漂うような、終着点も曖昧な、それでいて確かめ合わずにはいられない縺れ合った性の不思議を感じました。伴って『妻の死期』の場面に挿入されている『生老病死』は『苦しみ』が自らを鍛え、豊かにし、荘厳な命を『四面』からなる輝かしい『宝塔』に表わされています。『妻の死』は、死してなお生きるいのちを『良介』の心に刻みつけていたのです。

世界中の人々の心が、静かな平和へと向かって欲しいと、毎日願っております。相手への攻撃は何も生みはしないと強く思います。そんな事を祈りながら、次は《下巻》についてお便りさせて頂きます。お忙しい毎日でおられる事と思いますが、ご自愛のほど、お元気でお過ごし下さいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                  清  月     蓮

 

【65】『ここに地終わり 海始まる』宮本  輝 著 上・下巻

 宮 本  輝 さま

身体が涼しさに慣れて過ごし易い毎日かと思っておりましたら、真夏のような暑い日もありました。陽が早く沈み、夕食後の時間がとてもゆったり感じます。好きな音楽を低く流しながら、本を読むのは本当に愉しい時間です。今日は『ここに地終わり 海始まる』を読みましたのでお便り致します。

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 葉陰で揺れる紅い実は、高原の風を受けています。『志穂子』が十八年間を過ごした『軽井沢の療養所』の近くには、こんな可愛い実のなる木があったと想像しています。木漏れ日が明るく輝いて、透き通るように美しく、葉音がさわさわ聴こえてくるように感じましたのでお借り致しました。

この物語は、俗世間の汚れを知らない、恋には無垢な『志穂子』が、最後は誰と結ばれるのだろうとドキドキしながら読み進めました。ロマンへの憧れを沸き立たせながら、深い意味が沈められている『題名』からも示唆を頂きました。

もしも『志穂子』が『梶井』と『尾辻』の二人の内、一人を選ぶとしたら…穏やかで思慮深い『志穂子』は、広い心で愛してくれる『尾辻』の胸に、静かに自分の未来を委ねるだろうと予想して読んでおりました。ですが『志穂子』を十八年の闘病生活から救った『奇跡の電源』は、一度だけ舞台に立ち、演奏していた姿を見ただけの『梶井』からの一枚の『葉書』だったのです。その中の言葉が『志穂子』の命の中に眠っていたものに火を点け、その焔は身体中を燃え上がらせる程の力を与えたのです。人間の命に仕組まれた『電源』とはなんて凄い力を持っていたのでしょう。初恋と呼ぶにはあまりに強い稲妻のような電流でした。では、どうして『志穂子』は、嘘つきでいい加減で、過去に幾人かの女性の影が見える『梶井』に抱かれたいと思ったのでしょう。

例えば言葉、例えば自分への思いやりの行為、それらに感謝することを超えて存在するもの…それは多分その人の目の光から、声のトーンや、単なる気配から…自分の中に直に伝わる何かなのかもしれません。『志穂子』はそれに従いたかったのでしょう。いのちは、奥の奥で、心のそのまた奥で、身体中が燃えあがるような、頭で考えても制御できないような、勘とも言えず本能とも言えない不思議な力を持っているのです。敢えて言葉にすれば、いのちの精 の仕業のような気がしています。

『地の終わり』は過去の自分と訣別し、悪い過去を捨て去ると言う意味で、『海始まる』は新生した自分のいのちの始まりを意味するのでしょう。それは簡単には出来るはずのない、ゲームのリセットのようにはいかないのです。ですが、人が心の底から自分の過去を改め、今までの生き方を変革したいと決意したとすれば、その場所こそ『ここに地終わり 海始まる』処だと思います。してはいけないことをしてしまった懺悔や、忘れ去れない後悔や、軽率な判断から人を傷つけたとしても、時間の熟成を待ち、彷徨いながらもたどり着けるのです。『ここに地終わり 海始まる』…そんな場所に。

ご自身の『あとがき』に、気になる言葉がありました。『幸福という料理は、不幸という俎板の上で調理されるものだと、私はいつも思っています。…』という書き出しです。不幸を意識した記憶はなく、いつもギリギリセーフの私のような人生には、本当の幸福は訪れないのでしょうか。この命題はもう少し作品を読みながら考えてみたいと思いました。小説作法のことならいいのですが…

これから美しい季節が訪れます。冬の前の宇宙の気配を、胸いっぱいに吸い込んで、少しの間、今を愉しみたいと思っております。もう避暑地からお帰りになられましたでしょうか。台風が近づいておりますので、充分お気を付け下さいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                          清 月     蓮

 

【64】『にぎやかな天地』宮 本  輝 著  上下巻

宮 本  輝 さま

お変わりなくお過ごしのことと思います。暑いと文句を言っておりましたが、秋めいてきますと、毎年のことながら急に心細くなります。寒いのは大の苦手なので、もう少しの間この気候が続いて欲しいものです。今日は『にぎやかな天地』を読み終えましたのでお便り致します。

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 涼しげな立山連峰の写真をお借りすることに致しました。この美しい田園からは、御著書『田園発港行き自転車』の明るい幸せな物語が浮かびあがります。山々は遠く何万年もの歳月を、こうして動じる事なくそこに在ります。富山の街は山々に見護られ、街の人々は沢山の恩恵を受けておられます。長い年月が育んだ目に見えない物も含めた命の波動は、山々の至る所から立ち昇り、発酵したり熟成したりしているのを想像できるこの写真をお借り致しました。

ここでは『発酵食品』が縦糸となり、主人公『聖司』が、勇気を振り絞り自分の道を定めてゆく過程において、考えたり迷ったりしながら決意を深めてゆく物語が描かれています。縦糸について書きますと文面が長くなりますので、中に沈められた自分なりに感じた「核」について書いてみたいと思います。

それは『時間』の為す、科学でも解き得ない天の、もしくは宇宙の『方程式』だろうと思っています。目には見えずとも最後のシーンで『聖司』が聴いた水のしたたりのような『音』こそ、その存在を信じ得る証だと感じています。目に見えるものしか信じられないとすれば、現代の私たちは今ある糠漬けも、鰹節も醤油や酢や味噌も享受できなかったでしょう。

この中にこんな言葉が出てきます。『天佑』…漢字二文字ですが、両方とも目には見えません。『天』とはどこにあり『佑』とはどのような現象でしょうか。

文字の理解は「天が助ける」との意味ですが 、ではどうやって…と疑問が湧きます。これは『聖司』が『祖母』から聞かされ続けていた言葉で、『人間の力ではもうどうにもこうにもならなくなったときにあらわれる天の助け』との意味です。人が懸命に考え、腹を据えて決意すると、そこに『天佑』が生じ、道を拓かせてくれる事は、実際に経験した人間にしかわかりません。『聖司』はこの物語の中で、本気で『豪華本』の制作に未来を託すと決意した途端、次々仕事が舞い込む事でそれを実感しました。もし、自分も本気で知りたいと思うなら、京都『三十三間堂』に赴き、あまたの『菩薩や風神、雷神』の前に佇んでみるのも良いだろうと思い、近々には訪ねてみたいです。私に何を語ってくれるかは 、決意の深さに因るのだろうと思っています。

決意には『勇気』が要ります。『えいや!』と自分に掛け声をかけて、組し易い『保険』を手放さなければなりません。そんな時、一番邪魔になるのは『嫉妬』という怪物です。『ねたみ、そねみ、やっかみの気持ち…』それを追い払うにはどうすればいいのでしょう。それは 、そんなものが入り込まない位の大きな愛情を胸に溢れさせる事だと思います。目に見えないものが自分を護ってくれていると信じられるなら、人のことを妬んだりしようにも、できないものだろうと思います。嫉妬が入り込む隙間が無いように隣の人々、縁した方々を愛して暮らすこと。そんなことを物語を読みながら深く感じました。

夏のお疲れが出ませんようお祈り致しております。世界が平和になり 、戦いが静まり 、目に見えないもの達が、にぎやかに私たちの周りに息づいていてくれるようお祈りしております。どうかごきげんよう

 

                                                                          清 月   蓮

【63】『オレンジの壺』 宮本  輝 著     上下巻

宮本  輝 さま

やっと九月に入りました。まだまだ暑い日が続いておりますが、いかがお過ごしでおられますか。八月はお忙しい事と思い、お便りを差し控えておりました。またこうして本が読める事を、嬉しく思っております。今日は『オレンジの壺』を読みましたので、お便り致します。 

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 蓮の季節は移りましたが、余りに美しい写真なので、またお借り致しました。泥の池から次々姿を現わす蓮の花は、この物語の『オレンジの壺』の仲間のようにも見えましたのでお届け致します。

『骸骨ビルの庭』だけでなく、ここでも戦争にまつわるお話を書いて頂き、とても感謝致しております。人に何かを伝えたいと思う「核」があり、それを物語にできるのが小説の凄いところです。いつもながら謎めいて、早く知りたい気持ちを抑えられません。読み手をおいてきぼりにせず、ぐんぐん物語の中に引っ張ってくださる力こそ、読む愉しみの真骨頂だと思っております。今回のヒロインは美し過ぎることも色っぽくもなく、親近感をもちながら落ち着いて読み終えました。この世で一番呪わしく残酷で何一つ良いところなどない《戦争の歴史》は、途切れる事なく現在まで続いています。何故なんだろうといつも考えます。

『戦争とは個人のエゴイズムが増殖した結果として生じるもののようです。…』登場人物『クロード・アムッセン』が書き送った手紙の形でこう書かれています。そして『個人のエゴイズム。この魔物に、私たちはいつも狂わされてきました。人間は、まだ一度も、自分のエゴイズムを超克したことはないようです…』ともあります。      現在の世界を見回せば至極頷ける言葉です。何か難しい思想、政治、主義、宗教の違いが原因なのかと考えがちですが、どんな場合でも結局突き詰めると、私利我欲にゆき着きます。自分の支持する思想こそ正しくて、他は封じ込めなければ気が済まなかったり、自分の信ずる宗教こそ唯一無二だと他を弾圧しようとするのはエゴイズムです。それに加えて、自分だけ冨み潤えば、人をどんな苦しめても戦争に加担する人達もいます。ですが、それを悲しい事と捉え、諦めるのではなく、もしも人々の心が、他者への愛情に満ちる日がくるなら、戦争を超えられる希望があると理解することもできます。

『オレンジの壺』には、はっきり書かれてはいませんが、世界中に蜘蛛の巣のように張り巡らされた組織…非暴力はもちろん、穏やかな権力への抵抗を誓い、権力の下で非道な扱いを受けている人々の味方になれる『オレンジの壺』のような組織…それを形成できたならば、どんなに素晴らしいでしょう。戦争の排斥はこんな地道な努力によるしかないと気づかせて頂きました。

ですが、現在なお、世界は差別と憎しみに満ち、相対する考えの人々を暴力により抑えつける行動は、ますます心と立場の分断を拡げています。子供達がそれに利用され、自爆テロを強要されるなど、言葉に出来ない悲惨さです。戦争で命からがら逃げて来た人々に対する排他主義は、結局自国をも滅ぼすことにも気づいていません。このような世界情勢を『オレンジの壺』を書かれた43歳にして、早くも見通されていた先見には、こうべを垂れる思いが致しました。世界が平和で、人々が誰もやさしい気持ちをもつ日が来ることを、そして粘り強く共生できる道を探し続ける事を、強く願って止みません。

これから、また平穏なご執筆の日々が続くことをお祈り致しております。秋めいた朝夕に少しほっと致しますが、まだまだ日中は気温が高いようです。ご自愛くださいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                    清  月    蓮

 

【62】『こうもり』 宮本  輝 著     『幻の光』に収録

宮 本  輝 さま

ますます暑さが厳しくなっております。札幌に住む姉まで、今年は耐えられない暑さだと申しておりました。そちらは如何でしょうか?  関西では今朝、少し涼しい風が吹いて、一息つけた気が致しました。ですが、日中の暑さは嘗て経験したことがない程です。今日は短編『こうもり』についてお便り致します。

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 この写真は『ランドウ』と『娘』が消えた堤防の上の、海と空のようです。暮れかけた空間には不吉な『コウモリ』が低く飛び交い、不気味さが広がり、暗い雲は人の心に巣食う「性の不可思議」や「止められない衝動」のようです。昼間の明るい青空に、突如 覆ってくる得体の知れない暗雲。この中に出てくる性のイメージと重なりましたので お借り致しました。

短篇『こうもり』には『耕助』の高校生の頃と、結婚した後の推移が交錯しながら描かれています。

夏の盛りに『ランドウ』と『耕助』が 可愛い『娘』を探して行き着いた街は、犬猫の屠殺場があり、工場のクレーン車が大きな音をたてていました。密集した住宅街には、傾きかけた家が並び、錆びたトタン屋根のバラックも見えます。そんな場所に住む『娘』は、『おきゃんな写真』の顔に加え、実際に見ると、かすかなおびえや羞恥が滲む表情をしていました。『ランドウ』は、全身汗みずくで、直前にはラーメンを啜り、その臭いを全身から発していたでしょう。堤防の向こうの海は、油だらけの汚い海です。ロマンの要素はひとかけらもなく『ランドウ』は鷲鼻でそれほど美男子でもなく、お金も持っていません。でも、堤防の向こうから『娘』の助けを求める悲鳴も聞こえず、ただ時間だけが過ぎてゆきます。

この時、高校生の『耕助』の胸を襲った突然の衝動はなんだったのでしょう。自分には女の友達はまだ一人もいない。好奇心が疼き、見知らぬ世界に対する淡い期待と理想が、この瞬間、見事に裏切られてゆくのを知ります。だから堤防のこちらで一人待つ間に『ランドウ』の『ドス』で、むちゃくちゃにカバンを切り裂き、一人家に帰ったのです。あんな可憐そうな娘を手なづけたであろう『ランドウ』への憎しみが、あとさきを考える余裕もなくし、報復を恐れない何かを『耕助』にもたらしました。

数十年後… 『耕助』は結婚しているのに、秘密で『洋子』との関係をもってしまいます。『洋子』は29歳。微妙な年齢。未来のない関係がわかる歳です。そんな『洋子』は『耕助』と京都で会うたび、何故か『詩仙堂』の庭を見たがります。『…うん。もう辛抱でけへんとおもう』     こんな自分の体の奥深くの無意識の性の叫びと闘っていたのでしょう。

詩仙堂の庭で、風に巻き上げられた落ち葉は、妖しい渦を作り、空遠くに吹き飛ばされたり、いつまでも回りながら空中を彷徨っています。その落ち葉の乱舞は、まるで高校生の夏に見た『こうもり』のようです。『耕助』は、自分が今『洋子』にしていることは、高校生の『ランドウ』と変わらないことに、やっと気づくのです。そして今日、『洋子』は、高く見えた寺の土塀を、一気に跳び越え『耕助』の元から去ったのです。

性の不思議は、相手を愛し、求める故の清らかで自然な行為でありながら、もしそこに相手の幸せを願う心と決意がなければ、あの『コウモリ』のように、鳥でも哺乳動物でもない、顔を背けたくなる醜い生き物の姿と化すのです。自分本位な性の行為は、誰も幸せにはしないでしょう。

七月も最後の週です。あまりの暑さですので、私も暫く家を離れます。九月に、またお便りをさせて頂きます。どうかお元気で、夏を乗り切って下さいますよう、お仕事が順調に進みますようお祈り致しております。どうかごきげんよう

 

                   清  月   蓮