【2】『夜桜』宮本輝著 『幻の光』収録
宮本輝さま
お変わりなくお過ごしでしょうか。
今日は『夜桜』を読みましたので、お便り致します。
四分咲きの桜に朝の光が当たると、誰でも佇んで見上げてしまいます。
なんて美しいのだろうと。
けれど、その花びらが顔に舞い落ちると煩わしいような、もう散り始めている桜は、去ってゆく春を想う『綾子』に、自分の過去を浮かび上がらせます。
まして夜。
綾子は縁側に座り、青い光にふちどられて空に浮かんでいるように見える
薄桃色の桜の大木から花びらが散りゆくのを見ています。
その時、綾子が見たのは、もしかして自分の姿だったのかもしれません。
どうしてあの時、一度だけ夫を許せなかったのだろう。
どうしてあの頃、夫に心も体も溶けてしまえなかったのだろう。
どうしてあの日、義父の慈愛に応えて自尊心をほどけなかったのだろう。
まるできつく締めた帯のように。
けれど、余りに長い年月が夫への愛も、どんな女にもなれそうな術も霞ませて
ゆきます。
綾子の家の二階にやって来たみも知らぬ青年と娘。
二人はこの庭の夜桜を見て新婚の夜を過ごそうとしていました。
男のささやきが『夜桜』の魔法と一緒に綾子の胸に滑り込んできます。
『今日は暖かいから裸のままでも大丈夫や』
綾子が御影の登り坂から見る神戸の海は、いつも不思議なさみしさを曳航しながら、桜の花びらと一緒に遠くに淡く輝いて見えます。
来年の桜が綾子にどのように降りそそぐのでしょう。
少しの曖昧さがそっと秘められています。
この桜は、義父の綾子への慈愛に満たされ、亡くなった今も辛抱強く、
檜造りの堅牢な屋敷の庭に、息を潜めて根を張り続けているのです。
『夜桜』には、過去に思いを寄せる女の姿が描かれています。
後悔しない人生は稀でしょうが、後悔の背後には自我を消せなかったこと、
自尊心をなにより優先したかった頑なさがあったことを、夜空に浮かぶ桜が
教えてくれたのだと感じました。
こんな午後は、夜桜を待って、ひとりそっと外へ出てみます。
夜の濡れたような空気の中で、いっそう際だった香りに包まれるといいのにと思っております。
ありがとうございました。またお便り致します。
ごきげんよう。
清月蓮