花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【14】『胸の香り』 宮本輝著  『胸の香り』に収録

宮本輝さま

梅雨が続いていますがお変わりございませんでしょうか?
今日は真夏の暑さです。
大長編小説 『流転の海』第8部『長流の畔』の発売 おめでとうございます。
私のFBでも沢山の方々がアップされていました。嬉しいです。
今日は、先週の続きです。この短編集の題名でもある第四篇『胸の香り』を読みましたので、お便り致します。

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この物語の舞台、神戸『御影』や『六甲道』には時々遊びに行きます。友人の家があるからです。なんと彼女の家はご主人が『郵便局』をされておられました。
六甲山の中腹にある『設備の整った病院』も、多分…と思う建物を見上げた事があります。この物語は、昭和20年代に在ったので、今は様変わりしているでしょうが、『郵便局に勤めていた女』はこの辺りに住んでいたのだろうか、また『そのあたりでもひときわ大きな屋敷』とはどんなだったのだろうと、行く度に想像したり致します。

『母』の胸の奥に燻っていた遠い光景の記憶。
夫にぶつけても、叱責されただけの1つの疑念は、無意識の彼方に消えずに残っていたのです。   もしかしたら『夫』は幸せだった『御影の生活』の中で、私を裏切り、よその女との間に子をもうけていたのではないか…     それを確信に変えたのは、言葉で説明できない1つの香りでした。
香料でもない、好物の食べ物の匂いでもない、体温に温められて胸や首の辺りから立ち昇る、仄かなその人だけの香り。その香りを持った夫以外の人に、出会ってしまったのです。その人は『夫』が嘗て通いつめていた『パン屋の息子』でした。亡くなった『夫』の秘密は、実証とは言えないこんな頼りなげで微かな独特の香りによって、死の間際まで『母』を襲いました。死が迫る枕辺で、愛犬の鼻先に噛み付くほどに激しく、『おとうちゃんの胸…』とうわ言を言い続ける程、壮絶に。
ここに書かれている物語は、答えの出なかった事による苦しみであったろうと思います。   鮮明に出来ず、生活に追われ、時間が経過したことにより、発酵して強くなり『母』を苦しめることになりました。どんなに包み隠そうと『紛れない結末』はこんな風にやってきてしまったのです。人の為したことは時間の経過に拠らず、『紛れない結末』を迎えるものなのでしょう。
でも実生活に於いては『母』は『息子』が大学を卒業し結婚して、経済的にも恵まれ『所願満足』だと感謝しています。『母』は、息子を護り抜き、懸命に生きたからこそ、もしかしたら弟がいるのかもしれない事を『息子』に話すことができたのだろうと思います。その弟は『おとうちゃん』とおなじ性癖をもっていることを微かに表す最後の場面は、少しクスっと致しました。

この写真は、幸せな生活の中に突然訪れた疑惑を心の奥に湛えながらも、それでも女として母として生き、雄々しく美しく花開いた『母』の姿のように感じましたので、お借り致しました。その人の持つ『胸の香り』は、愛する人を持った者にだけ分かる独特の香りなのですね。
またお便りさせていただけますように。どうかごきげんよう

                                                                               清月蓮