花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【36-3】『錦繍』宮本 輝 著 その3

宮本  輝さま

夕べ遅くに降り出した雨が、今朝まで音もなく降り続いております。初冬の雨は哀しい調べをつれてきます。いかがお過ごしでおられますか。  今日は『錦繍』の3通目のお便りをさせて頂きます。      

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 この写真は、降り積もる紅葉が地面を覆い尽くし、見上げればまだ木々は明るく色づいています。真ん中に道が見えます。『ドッコ沼からゴンドラリフト』への道、茶店モーツァルト』までの道、『清高』が満天の星を見る為に辿った道物語に出てくる『錦繍を纏った様々な道を思い浮かべて、お借りしました。

 

『靖明』と『亜紀』は、長い書簡の遣り取りを通して、今までの自分たちの人生の過去と向き合いました。『靖明』は、自分を『野良犬』よりも劣ると感じたり、惹かれ続けた『瀬尾由加子』を『酒場の女』などと蔑んでみたりしました。『亜紀』も肢体の不自由な子を産んだのは『靖明』のせいだと思ったりしました。でも、わだかまっていた胸のつかえを吐き出したことにより、足元の自分の道についてやっと気づけたのでしょう。

『亜紀』が『モーツァルト』を聴き、そして呟いた『生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへんという忘れられないフレーズが今心の中で反復しています。  この言葉に、観念的な解釈を加えても詮無いことですが、クラシックに疎い私でも、時にモーツァルトを聴いていますと、周りの現実が、全て確かに消えたように感じることがあります。今の年齢も、役目も、予定も、すべてが何処か遠くへ消え去り、目を瞑りますと、そこは果てしない銀河に囲まれたような無限の空間にいるような気持ちになるのです。「時」は無く、ただ自分の中の何かそれは霊魂などと呼ぶようなものではない別の何かそれだけが、モーツァルトの音楽の中に抱かれているような不思議さを感じるのです。いつも気になる劣等感も、嫌々ながらやらなければならないことも、全てが何処かへ飛んでゆき、恰も「いのち」そのものになって、ただ、広い世界を漂っているような快感に包まれます。今ある総てを受け入れられる、もう『死』すら無くなってしまったような感覚です。本当は『亜紀』が何を感じたかは、私にはわかりませんが、この『亜紀』の言葉に、私なりに幸福感としか言いようのない気持ちを当てはめてみました

もう1つ『靖明』が書簡の中で『瀬尾由加子』に殺されかけて、死の世界に半分入った時の感覚を吐露していました。そこには、自分が今まで生きてきた『善と悪』が、死の間際まで、自分に張り付いているのがわかったと書いています。今の生活の全ては、死後の世界に一緒についてゆくのだろうという暗喩だと思いました。過去、現在、未来は決して別々のものでは無く、過去が現在に、現在が未来へ、来世へと繋がってゆくのです。ここで『亜紀』モーツァルトの音楽から感じて『呟いた言葉』と結びついてゆきました。つまり「死は生の始まり」であると。『みらい』へ続く道であると

錦繍』はとても奥の深い作品で、私が一通目に書いた事などに終始していては、見逃してしまう多くのことが書かれています。それは絹糸で織られた精緻な織物の『錦繍』をも想起させます。なんて美しい物語であったことでしょう。胸の鼓動は読み終わっても中々静まってはくれない程です。それに致しましても最後に『瀬尾由加子』と密会して心中事件まで起こした京都の旅館に『靖明』は、この期に及んで訪ねて行ったことこの事実は、男のもつ愛情には逆らえない強い引力のようなものがいつも働くものかもしれないと感じました。  仕方がないので、過去にキリをつけて『令子』を喜ばせてあげる為の最後の『靖明』なりの儀式だったのだと信じてあげることに致します。女は懐が深くなくてはとても生きていけないのですから。

書いておりましたうちに、雨が上がったようです。紅葉した庭の木々の葉に、水滴がつき、瑞々しく光り出しました。部屋を満たしていました音楽の音を落として、私も現実に向き合わなければなりません。夕ご飯の支度にかかります。貴方さまも美味しいものを沢山召し上がってくださいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                        清月