花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【54-2】『葡萄と郷愁』 宮 本  輝 著 《 角川文庫ー解説について 》  

 

宮本  輝さま

お元気のことと思います。今週は次の作品についてお手紙しようと思っておりましたが、先週の『葡萄と郷愁』の「解説」に少し疑問があります。角川文庫の『葡萄と郷愁』の最後に、連城三紀彦さんが書かれていた「解説」なのですが、今日はそのことについてお便り致します。

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 この写真は日本海ではありませんが、波のうねりと光に、いつか見た『幻の光』の舞台『曽々木の海』に通じるものを感じましたのでお借りしました。

何故『幻の光』かと申しますと『葡萄と郷愁』の「解説」の冒頭で、その事に触れられていたからです。

この「解説文」は、とても研ぎ澄まされた文章だと感じました。その中で少し思ったことについて書いてみます。

連城さんは、佐渡の日没後の海で『幻の光』に遭遇されたかもしれないそうです。それは《残照ではない、空自体がもっている不思議な明るい光》とあります。ですが、作品の中の『幻の光』は、空や、雲間や、海と空の間の光のことではなく、海上に見える強い《光の塊》のような輝きであったという記憶があります。私の勘違いだったでしょうか。いつか、海の上に、そこだけキラキラした強い光線に、まるで射抜かれたような海の輝きを見た覚えがあります。読み手は実に様々な自分の体験から、物語の内容を解釈するものだと、改めて思います。

また、読み進めますと、宮本輝さんの作中の実際の場所を訪れてみたくなったり、夢中で読んでいる途中で、出てくる食べ物を無性に食べたくもなることについて書かれています。けれど、このような実体験を喜ぶのは「宮本輝観光客」だとの指摘がありました。感動した物語の地を、この目で見てみたいと思うのは自然の欲求だろうと思います。せめて作品を辿る旅人、位の言葉にして頂ければよかったように感じます。

最後に、もう少し解説を読み進めますと、こんな文章に出会います。

《人を風景のように見ると言う、僕が最近になってやっと得た目を、実は宮本さんは子供の頃から既にもっていた…》というものです。

本当にそうなのでしょうか。人が『風景』を見るとき、対象物から少なくとも一定の距離を取らなければなりません。そうしなければ見えないからです。しかもある意味、無機物のように周りの人間を見つめる必要があります。宮本輝さんはそんな子供だったのでしょうか。  私にはどうしても、子供の頃に、そんな見方をされていたとは思えません。心にとまった朧げな映像や、何故かそこだけ鮮明な記憶の断片が、大人になってから、それらを蘇らせ、血が吹き込まれたのではないかと思っております。  確かに宮本輝さんの作品には、多くの登場人物が出てくるものがありますが、その中の誰一人にも、作り物の無機物な要素を露ほども感じないのは、人を「風景」として見るどころか、その人間の内部に深く潜り込み、息を吹きこみ、血を通わせておられるからだと思うのです。ほんの端役みたいに登場する人物にまで、その人独特の性格を読み手に感じさせて、実際に目の前にその像が現れるほどです。それをエッセイの中で「憑依」と仰っています。ですから、人間を『風景』などと思われているとの記述に疑問を感じました。   プロの人にしかわからない表現なのかもしれませんね。  宮本輝さんの小説は、書き出す時に一度その人物を「風景」のように客観視したり、性的な普遍性に静かな目を保ちながら、胸の中の登場人物への愛情を包んでいた薄皮を、少しづつ剥がしながら、とても自然に書く行為へと繋がってゆくのだろう想像致します。勝手なファンの願いかもしれません。

それにしてもこの解説文は、見事にこの物語を「ひと房の葡萄」と結び付け、作品に構築されたもの…地球上の時間の距離と、地理的距離と、男と女の愛情に賭ける距離を見事に解き明かし、私の前に見せてくださいました。まるでデパートの贈答品の箱に入ったキズ一つ無いマスカットを連想する程に正確で、納得のゆくものでした。

世界はめまぐるしい程に、激しく変化しているように感じます。言葉の品格に欠ける発言が、日本の政治を司る方々から毎日のように飛び出すのは、とても恥ずかしく悲しい気が致します。暑さに向かう時期に入りました。ご自愛くださいますように。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                         清 月  蓮