花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

『不良馬場』宮本 輝 著   『星々の悲しみ』に収録

宮本 輝 さま

お元気でおられますか。真夏のように暑い日が続きます。今からこれでは、今年の夏が思いやられます。梅雨が近づいておりますが、あまり豪雨にならないよう祈るばかりです。今日は『不良馬場』を読みましたので、お便り致します。

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 木々の間で、深い緑に光を遮られて咲く花は『寺井』の心のようです。『寺井』の肺に空いた『空洞』は、遅々として閉じず、社会からも会社からも忘れられたように感じています。どうすることも出来ず、隔離された病院のベットの上で、一刻一刻を耐えるしかありません。この花はそんな心のように寂しそうに健気に咲いていて、心惹かれましたのでお借り致しました。

この短編の中に少し書かれている『西宮球場』は 今はもうありません。ガーデンズという広くてとても近代的なショッピングモールになりました。楽し気にゆき過ぎる人々は幸せすぎる顔をしているように見えて、いつもふと立ち止まってしまいます。また、門戸厄神駅近くの『病院』は、私の知人や友人が、度々入院していたので、何度も訪れた病院だろうと思います。仁川の『競馬場』も、今は新しくなりましたが、横を走る中津浜線は毎週のように、車で通る道路です。

アメリカへの転勤を約束されていた直前に『寺井』は肺結核に罹り、実家に近い病院に入院しなければならなくなりました。妻は母との『嫁姑の争い』に我慢できず、自分の実家のある東京に仕事を見つけて、帰ってしまいました。見舞いにはニヶ月に一度しか来なくなります。学生時代からの友人『花岡』は、これまで一度も見舞いには現れず、初めて『花岡』が見舞いにやってきた日から、この物語は始まります。『花岡』は 軽いゲームのつもりで『寺井』の『妻』と情事に堕ち、さすがに見舞いには来にくかったのです。『寺井』は、多分その事を察しているのだろうと思います。

『寺井』は、商社マンだった頃、『相手の弱点をじんわり刺し抜くような皮肉っぽい口調』の人でした。二年間の闘病生活で 、彼は『落ち着きと優しさがこもった』口ぶりに変わっていました。ここで宮本輝さんは、さりげなく、病いに苦しんで自暴自棄になったり、諦めたりしないで耐え忍ぶ事がもたらす人格的な進展について書かれているように感じます。この病棟に集まって来た人は、運が良いとも思えず、裕福な人もいそうにありません。ですが、苦しみを共有して相手を思いやる心が育ち、人に優しくなり、相手の喜ぶことをする人ばかりです。その事に気付いた『寺井』は、今まで悶々と考え、悩み抜いていた自分の人生の目標や価値に、まるで『憑物が落ちた』ように何かが抜けてゆくのを感じます。『こんなのに やられてたまるかよ』と自分の胸を叩き 、生と死の格闘に目覚めたのだろうと思いました。

降りしきるこぬか雨に、ぬかるんだ競馬場。そこで起こった最後の直線コースの悲惨な事故。二頭の馬がもつれ合い、一頭が叩き潰されてのたうち、血を吹き出して倒れます。こんな残酷な描写には目を覆いたくなりますが、最後にどうしても書かれていて欲しい事のように思います。それは 確かに友と妻の「不実の報い」を連想させるからです。馬の脚が折れた最後の描写は凄まじく『寺井』の心の中を 垣間見たように感じます。そして一緒に観ていた『花岡』の心には、火のついたように踊り狂い、崩れおちた馬の姿が、たとえ何処へ行こうと、不気味な陰影で付いて回わる気がします。萎えてしまった500円札を握りしめていたあの老人の姿と共に。せめてそうでなくては救われません。

先ほど  荒れ狂うような激しい雨と雷がしばらく続きました。夜の雨は少し不安ですが、今は昼間の熱や埃をすっかり流したようで、外へ出ますと、湿気を帯びた清々しい香りが致しました。どうかゆっくりおやすみくださいますように。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                         清 月  蓮

 

 

新装版 星々の悲しみ (文春文庫)

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