花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【61-2】『睡蓮の長いまどろみ』 宮 本   輝  著  《下巻》

宮 本 輝 さま

暑く長い夏が始まっています。今年は春から一気に真夏の暑さです。汗をかかなければ、身体から毒素は抜けないだろうと、昼間はエアコンを点けないで過ごしておりますが、たまらなくなると、近くの涼しいショッピングモールを、ただ歩くために訪れたりしております。今日は『睡蓮の長いまどろみ』《下巻》についてお便り致します。

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写真を見た瞬間、この美しい花が 清月蓮 と名付けられた蓮の仲間かも知れないと思いました。何年か前『睡蓮の長いまどろみ』を読んだ時の、強い憧れは今も続いております。花芯には既に実が備わり、花の命の核は『因果倶時』の所以をくっきりと見せています。こんなに自身の思い入れ通りの写真に驚きながら、感謝してお借り致しました。

『蓮と睡蓮』の違いは、作中の『美雪』と同じように、言葉のイメージから、私も勘違いをしておりました。この物語に依り明らかになった事柄は、他にもう一つあります。『川三部作』で少し気づき『錦繍』でヒントを得た気分になり、とうとう『睡蓮の長いまどろみ』まできてしまいました。それは『宿命』についての《謎》です。

『生まれながらにもつ容貌、性格、体力、才能、運、それに嗜好』これらが厳然と生まれた瞬間に既にある限り、一人一人に生まれる前から『宿命』と言えるものも備わっているだろう事は、認めざるを得ない真理です。では、生まれる前とはいつでしょう。やはり「過去生」と呼ぶしかない時間軸において、既に備わっていたのです。  けれども、仮に現在、貧乏や、病いや、不運や、悩み苦しみなどに苛まれ続けているとして…それを「過去生」の行いが悪かったからだと捉えるとすると、責任も自覚もない事への腹立ちを感じて、恨みすら抱きます。

結果、捨て鉢になったり、諦めて投げ出したりするかも知れません。何故なら本人は「現生」において、「悪」と言われる事を成した覚えはないからです。心から善良な生き方をしてきたと感じています。ですが、自分で正しいと思う意識の底に「過去生」から蓄えられた「無意識」が沈んでいるのです。   それは「現生」において「宿命の核」のように命に刻まれて生まれてきているのです。それをどうやって割り、砕き、ねじ伏せていったのかが、ここに物語として著されていたのだろうと思います。 

《三千人の私を生きる》という『美雪』の言葉が出て来ます。生きる支えになった言葉です。これは、仏法の《一念三千》に通じる法華経の哲理で、命の中に三千もの、選択、決意、可能性を孕んでいる事を指し、それが自分の意思と行動により、ダイナミックと言って良い位に烈しく、命を新たに「転換」してゆく力を表す言葉として、自分の中で動き出すのです。

不幸な『宿命』の毒薬を、幸せへの秘薬に変える方法。それは、自分の『宿命』の原因を探ろうと、過去から繋がる現在の呪縛に囚われるのではなく、未来に向けて、新しい《因》となるような自分を見つけ出し、未来の《果》を創り続ける事なのです。

蓮に教えられる『因果倶時』とは「今日から明日へ」生きること…未来に幸福をもたらす「因」を、今、作ろうと心に決めた瞬間、そこに同時に「果」が俱わっているのなら「宿命を変えよう」「未来を変えよう」と決意した瞬間に、もう結果はいのちの中に生まれていると言う事でした。この事をを知った時の幸せな気持ちは、少しも薄れず胸にあります。気づかせて頂き『睡蓮の長いまどろみ』は、大きな転機をもたらしてくれました。感謝の気持ちが溢れて、静かにページを閉じました。

 

昨日、西宮まで出かけましたが、行き帰り、車を運転しながら、なんと合計四台の救急車に道を譲りました。多分、この暑さで熱中症の方が続出されておられるのかもしれません。地球は人間の所作の傍若無人さに怒りを持っているかのようです。ご自愛くださいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                          清  月   蓮

 

 

睡蓮の長いまどろみ(下) (文春文庫)

睡蓮の長いまどろみ(下) (文春文庫)