花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【62】『こうもり』 宮本  輝 著     『幻の光』に収録

宮 本  輝 さま

ますます暑さが厳しくなっております。札幌に住む姉まで、今年は耐えられない暑さだと申しておりました。そちらは如何でしょうか?  関西では今朝、少し涼しい風が吹いて、一息つけた気が致しました。ですが、日中の暑さは嘗て経験したことがない程です。今日は短編『こうもり』についてお便り致します。

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 この写真は『ランドウ』と『娘』が消えた堤防の上の、海と空のようです。暮れかけた空間には不吉な『コウモリ』が低く飛び交い、不気味さが広がり、暗い雲は人の心に巣食う「性の不可思議」や「止められない衝動」のようです。昼間の明るい青空に、突如 覆ってくる得体の知れない暗雲。この中に出てくる性のイメージと重なりましたので お借り致しました。

短篇『こうもり』には『耕助』の高校生の頃と、結婚した後の推移が交錯しながら描かれています。

夏の盛りに『ランドウ』と『耕助』が 可愛い『娘』を探して行き着いた街は、犬猫の屠殺場があり、工場のクレーン車が大きな音をたてていました。密集した住宅街には、傾きかけた家が並び、錆びたトタン屋根のバラックも見えます。そんな場所に住む『娘』は、『おきゃんな写真』の顔に加え、実際に見ると、かすかなおびえや羞恥が滲む表情をしていました。『ランドウ』は、全身汗みずくで、直前にはラーメンを啜り、その臭いを全身から発していたでしょう。堤防の向こうの海は、油だらけの汚い海です。ロマンの要素はひとかけらもなく『ランドウ』は鷲鼻でそれほど美男子でもなく、お金も持っていません。でも、堤防の向こうから『娘』の助けを求める悲鳴も聞こえず、ただ時間だけが過ぎてゆきます。

この時、高校生の『耕助』の胸を襲った突然の衝動はなんだったのでしょう。自分には女の友達はまだ一人もいない。好奇心が疼き、見知らぬ世界に対する淡い期待と理想が、この瞬間、見事に裏切られてゆくのを知ります。だから堤防のこちらで一人待つ間に『ランドウ』の『ドス』で、むちゃくちゃにカバンを切り裂き、一人家に帰ったのです。あんな可憐そうな娘を手なづけたであろう『ランドウ』への憎しみが、あとさきを考える余裕もなくし、報復を恐れない何かを『耕助』にもたらしました。

数十年後… 『耕助』は結婚しているのに、秘密で『洋子』との関係をもってしまいます。『洋子』は29歳。微妙な年齢。未来のない関係がわかる歳です。そんな『洋子』は『耕助』と京都で会うたび、何故か『詩仙堂』の庭を見たがります。『…うん。もう辛抱でけへんとおもう』     こんな自分の体の奥深くの無意識の性の叫びと闘っていたのでしょう。

詩仙堂の庭で、風に巻き上げられた落ち葉は、妖しい渦を作り、空遠くに吹き飛ばされたり、いつまでも回りながら空中を彷徨っています。その落ち葉の乱舞は、まるで高校生の夏に見た『こうもり』のようです。『耕助』は、自分が今『洋子』にしていることは、高校生の『ランドウ』と変わらないことに、やっと気づくのです。そして今日、『洋子』は、高く見えた寺の土塀を、一気に跳び越え『耕助』の元から去ったのです。

性の不思議は、相手を愛し、求める故の清らかで自然な行為でありながら、もしそこに相手の幸せを願う心と決意がなければ、あの『コウモリ』のように、鳥でも哺乳動物でもない、顔を背けたくなる醜い生き物の姿と化すのです。自分本位な性の行為は、誰も幸せにはしないでしょう。

七月も最後の週です。あまりの暑さですので、私も暫く家を離れます。九月に、またお便りをさせて頂きます。どうかお元気で、夏を乗り切って下さいますよう、お仕事が順調に進みますようお祈り致しております。どうかごきげんよう

 

                   清  月   蓮

 

 

幻の光 (新潮文庫)

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