花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【71】『スワートの男 』宮本  輝 著    《 特別 書き下ろし小説 》

宮 本  輝 さま

この秋、日本列島は台風に見舞われ、凄まじい風と、烈しい雨を見つめておりますと、何故か『スワートの男』を読み直したくなりました。これは『宮本輝の本』を購入した折に綴じ込まれていたこともあり、とても特殊な感覚をもって読み終えた気が致します。到底私などが理解できるものではありませんが、今日は思い切ってお便り致します。

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 お話の舞台に登場した『インダス川』は、下流は、まるで大海のような川幅でも、始まりは、無数の山々からの湧き水や雨水、雪解け水が無数の流れとなり、徐々に大河の姿を判然とさせてゆきます。この写真には、細く清らかな流れの筋が、下の川へと落ちているのが見えます。これを目にした時、生命の辿る道も川の流れと同じようだと感じました。誰かに出会い、同じ道を流れたり、時に別々に流れることになったり『インダス川』が、やがて最後にアラビア海に注ぐように、いのちの最後の一滴も川の流れのように大海に落ちてゆく…そんな事をどこかにお書きになっておられたのを思い出しました。この写真に「命と川の流れ」の相似性を見た思いが致しましたのでお借りしました。

お話は、時空を超えた二重性を保ちながら語られています。『父親の違う弟』を、両手で抱きしめられぬまま、それでも、彼の幸せを願っていた兄『洋之助』は、愛した女の本性を見抜けぬ弟『賢介』の純真さへのもどかしさから、弟がその女の元へ行こうとした時、思わず大声で罵倒してしまいます。その言葉の衝撃から弟『賢介』は、交通事故に遭い、肢体不自由になってしまうのです。兄『洋之助』は、弟への懺悔の気持ちを抱えたまま旅に出たのでした。

そこは、僧『鳩摩羅什』が歩いた『シルクロード』への道でした。その僧とは、サンスクリット語の膨大な仏典を漢訳した人であり、その中の『法華経』にある言葉を、二人の異父兄弟は、大切に書き写して持ち歩いていました。

《 難問答に巧みにして    その心に畏るる所無く  忍辱の心は決定し  端正にして威徳有り 》

『威徳』とは威厳があり徳が高いことを言いますが、難しい内容が並びます。恥を耐え忍ぶことも、揺るがず信じることも、さらに成し難いことです。でも、二人の兄弟は、それを胸において行動することを目指したのです。ここまでの高みをみることができたのは、二人が人生を左右するような「不幸」に見舞われたからなのでしょうか。

シルクロード』には、阪神大震災の後、ご自身が実際に旅をされたことが、他の多くの著作にも著されています。その場所は、一体どんな場所で、何を感じられたのかなど、到底知り得るものではありませんが、きっと途轍もない「地球」を身体中でお感じになられたのだろうと思います。其処は、昼間の酷暑と陽が沈んだ後の冷気、竜巻が巻き起こす『太鼓のような大きな音』の中で、人々が暮らしていたのです。多種多様の民族が出会い、混じり合い、様々な容姿の人が自然の中に溶け込んでいるのを目にされた時、人の心に去来する僻みや嫉妬や恨みの、なんと情けないことかと感じられただろうと想像致します。

人々は砂漠と闘い、しかも砂漠と共に生きています。『蜃気楼』に撹乱され、どこまでも『オアシス』を目指しているつもりで、砂漠の奥へ奥へと歩き続ける者も日常的にいたのでしょう。それは、「生と死」が、ただ川の流れのように途切れる事なく、人の暮らしの直ぐそばで、休みなく続いていることを表しています。『洋之助』もここで、自然や人々の営みを見て、自分のわだかまりや躊躇の小さなことに気づき、突き動かされたように『賢介』に心から謝る他にないと決意しました。

この物語は、ご自身の「覚悟」を見定める為の旅への決意から発せられたのだろうと感じております。そこには絶望と希望がないまぜになっていて、それでも「新たな光」を求めて、砂漠の国々を、高い山脈を見上げるように『鳩摩羅什』の足跡を辿られのかもしれないと感じております。この中に登場する『クルド民族』は、世界最大の国土をもたない人々です。独自の言語さえ奪われ、民族の音楽や民芸の全てを抑えつけられたままに、長い過酷な状況下で、川がその流れを止めないように、人々は今日も地球上で生きているのです。          私も多民族国家に数年間住むことがあり、その頃、街で見た緑の瞳、見上げるような大男達、秀でた額と力強い鼻梁をもつ人達を見ました。その頃、自分の生きている世界の壁が崩れたような感覚をもちました。日本人の穏やかさの陰に隠れた曖昧さや、賢さを盾に意思表示をしない民族性に気づいたのです。          最後の場面に描かれている『スワートの男』とは、約束を守るためには、命をも厭わぬ意思の強い人のことなのかもしれません。そんなことを思い出させて頂いた貴重な作品でした。

風邪が流行り始めました。人混みに出かけられます折には、充分にご注意くださいませ。寒い中にもあたたかな陽だまりを見つけられますようお祈り致しております。どうかごきげんよう

 

                                                                  清  月    蓮