花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【73-1】『 水のかたち』宮本  輝 著 《上巻》

宮 本  輝 さま

朝の冷え込みがとてもこたえるようになりました。起きたらすぐに靴下を探してしまいます。いかがお過ごしでしょうか。今日は『水のかたち』《上巻》についてお便り致します。

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この写真は、森の中に分け入る「けもの道」のように見えます。物語の《上巻》の最後に『志乃子』たち四人が『お糸さん』を目指して、『キク婆さん』の『りんご牛』があった滝壺まで歩いた道。そして、織り込まれていた「お話」にあるのは、昭和21年に、朝鮮半島38度線を超えて、日本に引き揚げる際の『ムッシュ・イチヨーの母』が、死に物狂いで這いながら進んだ道。その二つの道が重なり、あまりの美しさに惹かれて、この写真をお借り致しました。

このお話は、主人公『志乃子』という平凡に見える五十歳の主婦に起った出来事が軸になっています。『音楽や落語また陶器』に造詣の深い方にも愉しいお話です。ですが、ここでは先に書きました『朝鮮北部の城津』から、日本人151人と共に引き揚げを決行した人物について思いを馳せずにはいられません。ですから、その事について書いてみます。

それには、先ずエッセイ集『いのちの姿』の中の『人々のつながり』にふれなければなりません。     宮本文学について、私が驚嘆致します第一義は、水の流れのように繊細で滑らかで、時に峻烈な展開の妙ですが、もう一つ『彗星物語』他にも見られる「事実の核」が存在する所以です。ここに書かれている物語は、私を深く震えさせるほどです。『いのちの姿』の中に書いておられる『絶対的確信』というお言葉は、そのような「事実の核」が長い歳月を経て、静かにご自身の胸に落ち積もり、そこから昇るように発せられたお言葉なのだろうと思います。

ご自身の若き日、25歳で会社勤めを辞され、小説を書き始められても、中々結果が出ないでおられた頃、生活維持の為に、ご近所の『和泉商会』に職を得られました。その頃のことは『バケツの底』の短編を生み『水のかたち』にまで結実してゆきました。

そればかりか『和泉商会』を離れられて、30数年経った後に、『和泉商会の奥様』から、実際に、突然の連絡があったのです。そして、『和泉商会』のご自宅に残された『手記と手縫いのリュック』の存在を、お知りになるに至ります。その時のご自身の強い衝撃を想像致しますと、この物語が、歴史上も貴重で、現代と戦後が微妙に綯われた作品として、後世に伝えなければならない事がよく理解できます。

お話は、戦前、朝鮮に住んでいた日本人の、命がけの日本への帰還を描かれています。敗戦により、その途端、現地の日本人は、朝鮮人による残虐な殺戮や暴力に合います。そのような状況下で、自分だけでも日本に帰れるかどうか、全く分からない崖っぷちに立ちながら、それでも、151名の同胞を見捨てず、いつ沈むか判らない「泥舟」のような小舟 ( 幅3メートル、長さ25.6メートル )を、決死の覚悟で出航させたひとりの日本人がいたのです。その方こそ『和泉商会』の『奥様の父上』であったのでした。

何故、宮本輝という作家の元へその『手記』が、辿り着いたかを思うと、何かにひれ伏したい思いに包まれました。阪神大震災の後、自らが運転され『和泉商会』の安否を確かめに行かれたやさしさにも、気持ちが波立ちました。『和泉商会』とは、たったの二ヶ月の繋がりでしかなかったのですから…

この小説は1988年8月から1989年9月まで毎日新聞に連載されました。それは、猥雑なことの多い世の中に、静粛で深淵な大河の一筋を確かに滴らせ、今も尚、流れ続けていると信じさせて頂ける読後感でした。

冬の鉛色の空を見ておりますと、不思議に歴史的な時間の膨大な流れを感じてしまいます。『劫』とはどのような長さなのでしょう。皆目解らずとも、それでも不思議なことに体の奥底に、そんな何かを溜め込んでいるかのような錯覚にとらわれることがあります。お風邪など召されませんように。どうかごきげんよう

 

                                                                    清 月   蓮