花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【76】『愉楽の 園』    宮 本  輝 著

宮 本  輝さま

 いかがお過ごしでおられますでしょうか。今日は『愉楽の園』を読みました。どれほどこの物語を愛しているかを、お伝えできる言葉を持たない自分が本当に無念でなりません。元旦にお便り致しました『青が散る』の中にある『自由と潔癖』が、少しの時を経て、登場人物の意識の中で闘いを始めた『物語』のように思います。 

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 この物語は、熱帯の国『タイ』が舞台です。私が、熱帯地方に住んでいた頃、いつも写真のような冬の風景が心の隅に沈んでいました。物語の中にも《木枯らしの街を襟を立てて歩きたい…》《冬の日本海…》との記述がありましたが、生まれた国の皮膚感覚の烙印は、地球上のどこにいようと消えるものではありませんでした。熱い鍋をかき回して、香辛料の香りが立ち昇るような国が『タイ』であるなら、日本は、この写真のような雪道に、一人立ちたいと感じさせる国だと思いお借りしました。

 

『タイ』の熱さは、重い空気が、透明感など決して見せない頑迷さで、異国の人間を、寺院の屋根に照り返す西日となって拒んでいるかのようです。ギラつく光線と灼熱が作り出す、退廃へ誘う思考力の浮遊、スコールの狂ったような雨音、茶色い『蜘蛛の巣』みたいな運河の至る所に繋がれた小舟、微風に揺れるブーゲンビリア、濡れた床の小さな店の沢山の惣菜類…それらは混ざり合い、溶け合って、異国の人間を見下しているかのような平然さを崩さずゆっくりと微笑むのです。

 

運河べりの大きな家に、お手伝いさんや運転手もいる生活を続けると、便利さや快適さに慣れ、そこから抜け出すのは並大抵ではありません。しかも『政治家で王家の血』を引く相手に強く請われたら、尚更です。『 サンスーン』の愛を受け入れ、平穏で裕福な一生は『恵子』にとって、魅力的でない筈はありません。それでも、迷いと躊躇の末に、日本への帰国を決めた『恵子』の胸には、自分はただ生活できれば良いと言う人間ではないとの、内奥の声に気づいたのです。ここに到達するには『サンスーン』が、才能ある作家『チュラナン』の小説を我がものとして、自分の人格や才能に化粧を施したこと、また、世界を放浪した末に、何の社会的な武器も持たず、日本に帰国した『野口』の存在がありました。言葉にされているのは《虚無の海では生きられない 生死の世界で生きている人間である》と書かれているように思います。『自由と潔癖』が青春の象徴であるとするなら、二人は、恋も体験も積んだ後、より広い世界に目を向けて、自分の生き方に決断をつける模索の時期にさしかかっていたのです。

 

『野口』が、世界中を旅した中で見たものはただ『生と死』であると書かれていますが、例えば、アフリカの奥地の住民や、貧しい難民キャンプの映像を観る度に感じるのですが、そこには赤児を抱えた母親の姿と、しゃがみこみ、苦痛に耐えているような老人の姿が、必ず見えるのです。世界には『生と死』が、至る所に横溢していて、その海を泳ぐ人々の姿だけがあったと『野口』は感じたのです。

 

『愉楽の園』は、『宮本文学』の中で、今も一番の宝物です。文学の素晴らしさは、文字が描く世界にどれだけ浸りきり、その場にいるような錯覚さえもてる吸引力の強さに尽きると感じるのは、読み出した途端、天井の大きな送風機の羽根がゆっくりと回り出し、部屋の重い空気をかき回す微かな音が甦り、直ぐに心が溶けてゆくのが感じられる事が、その確信を強めてくれます。読むほどに、心が静まるように感じる作品も好きですが、熱を帯びてくる体を意識できる作品は負けず魅力的なのです。

 

日々はどんどん過ぎ去ります。寒さはますます日本を覆ってゆく様です。風邪が流行っていて、友人達の中には寝込んでいる人もいます。くれぐれも、うがいを欠かされませんよう、ご自愛されてお暮らしくださいますように。今月はまた、芥川賞の選考でお忙しいと思いますので、暫くお手紙をおやすみさせて頂きます。どうかごきげんよう 

 

                                                                    清  月    蓮