花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【77】『手紙 』宮本 輝著 1995年小学5年国語(上)に掲載

 

宮 本  輝 さま

 芥川賞の選考も終えられ、落ち着いた日常が戻られましたでしょうか。この時期になりますと、阪神淡路大震災の記憶が甦って参ります。あの年に生まれた子達が もう23歳になるのですね。同じように世界大戦を経験された方々もとてもご高齢になられています。今日は小学校の『教科書』に書かれました『手紙』を読みましたので、お便り致します。 

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 とても美しい写真です。青い空にピンクの鮮やかな薔薇がお喋りをしながら、笑いあっているように見えます。何処かにありそうな薔薇のアーチですが、よく考えますと『平和の中』にしか存在しない事に気づきます。短編『手紙』に書かれた戦争の悲劇を読み、平和の大切さに気づかせていただいたのでお借りしました。 

このお話は小学生の教科書に載ったものです。やさしい言葉遣いでわかり易く、だからこそ胸に迫るものがありました。 

戦場で『タケオ』の祖父が『戦友』から託されて『広島』に住む両親に渡してくれないかと頼まれた『手紙』が、その題名になっています。戦場には、将来、学校の先生になりたかったり、医者を目指していた若者が、否応なく戦地に引きずり出され、敵を鉄砲で撃ち、命を奪い合うのです。それは同時に『相手』の夢を破壊し、自分と同じように両親や友人もいるだろう人間を、敵国だという理由で、 無差別に撃ち殺す行為なのです。 

小学生の幼い時期に、戦争はどのような大義名分があろうとも、残酷で無益で、今まで築いてきた全てを破壊し、身体を傷つけたり命を奪うものだとしっかり胸に刻み込まなけれなりません。その為の『宮本輝』さんのはっきりした姿勢がここにありました。 

私も幼い頃、祖父と暮らしていました。いつも寡黙で悲しそうでも嬉しそうでも無い顔で、淡々と朝から暗くなるまで庭にいた祖父を覚えています。庭には実をつける木々がありました。無花果、柿、グミ、葡萄棚にはデラウェア、そして鶏小屋もヤギ小屋も作り、卵とヤギの乳を得る為に一人で世話をしていました。庭の横手には、お正月のお餅つきの為の、屋根のある「へっついさん」までありました。隣の広い空き地には、祖父が耕した畑があり、ネギや馬鈴薯、大根、茄子、トマト、胡瓜が太陽の光を浴びていました。 

今、思いますと、祖父は、少しでも家族の役に立とうと思っていたのです。軍服色の堅そうな上着をいつも着て、戦争当時の教練用の帽子を被っていました。祖父がその古い上着を長く大切に着ていたのは、四人の孫と、息子である父の通勤着に、お金がかかると考え、自分は我慢して大切にしていたのかもしれません。 

祖父から戦争の話を聞いた覚えはありません。どの大戦に行かされたのかも知りません。ですが、祖父のその頃の姿を、今になって思い出すと、悲しみを抱えこんで、戦後を懸命に生きていたのだろうと納得がゆく気がします。『手紙』に触れ、たとえどんなことがあろうと戦争を起こしてはならない。それが私の胸に祖父の姿と共に強く甦って参りました。この『手紙』の宛てられた家族は原爆で死んでいました。『手紙』は届けられなかったのです。戦争は人間の犯す最も下劣な行為です。その事を胸に留めて日々を生きたいと思います。

 

年が明けますと、急に春に近づいたような気がしてまいります。たしかに暖かい日もありますが、冬はこれから厳しくなりますので、油断をされませんように、ご自愛くださいませ。どうかごきげんよう

  

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