花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【79-7】『流転の海』全9巻  (その7){ 1~9巻のテーマ別  読後感を記載 }

宮本  輝 さま

 謹啓

『流転の海』の中に何度か出てくる『宿命』について、繰り返し考えておりました。このテーマは避けて通れません。「運命」という言葉なら、耳慣れております。それは、自分の意志に関係なく突然訪れる、降って湧いたような幸不幸の転機だろうと…

『流転の海』では、何度も『伸仁』は、危機一髪の災難から逃れています。『鳩の糞の大きな塊』が、体の直ぐ横に落ちてきたり『野壺』にはまったり。『熊吾』も倒壊した建物から奇跡のように逃れたり、重いドアに挟まれても、手の指を失わずに済みました。『房江』も自殺する覚悟だったのに、偶然、命を守られます。これらは全て「運命」の仕業だと思っています。 

では『宿命』とはなんでしょう。『運命と宿命』はどう違うのでしょうか。『房江』さんも考えています。『宿命とは命に宿る』と書くのだと…

だとするなら「運命」とは、自分の《外》からくるものであり『宿命』とは、生まれた時に既に自分の《内》に在るものだと考えました。

『宿命』について…

『熊吾』は、『父の故郷』に立ち、山や川や空や風や星を眺めて、故郷の空気を吸い込みながら《血の騒ぎを聴く》のです。 『血の騒ぎ』とは、言葉にできない、溜息や、呻きや、叫びや、願いや、悲鳴や、祈りや、歓喜の歌…のようなもの。深い静かな、体の奥のからの衝動。それこそが『宿命』を掌る正体のように思います。 父母や、もっと前の先祖から受け継がれた《血の騒ぎ》は、それぞれの命の中で育まれながらその姿を現します。幸福に繋がる喜ばしい『宿命』も、そうでない『宿命』も、やはり受け継がれているのです。父母が育った故郷は、自分の『宿命』と向き合い、刻まれた命の傾向を知る場所なのでしょう。

物語の中に、落語『鴻池の犬』が登場します。『伸仁』の落語好きの一場面として描かれています。『3 匹の犬』は、同じ親から同じ時刻に生まれ、一緒に道端に捨てられたのです。体の色は黒、ブチ、白と、三匹三様です。体の色の違いから分かるように生まれた時、既に『宿命』は始まっています。3匹は『宿命』に操られたように生き、しかも1匹は早くに死んでしまいます。同じ親から生まれても『宿命』は、個体ごとに、命に宿っているのです。落語ですから面白おかしく語られていますが、この噺を聞いていて、犬は『宿命』に従って生きるしかないのですが、人間には「宿命との戦い」が、きっとあるのだろうと思ったのです。そうでなければ『宿命』だけに支配された人生など、生きる意味が見つけられません。『宿命』を好転させたいと強く思ったなら、まず自分の『宿命』の傾向をしっかり掴まなければ、戦う事は出来ません。

長くなりましたので『宿命』については、あと少し、次のお便りに書かせて頂きます

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写真は『熊吾』の故郷のイメージを感じてお借り致しました。このような美しい山里を守る事は、日本と日本人の心を守ることのように思います。『熊吾』の故郷 の、災害で崩されてしまった山々は、復興まで長い年月がかかります。お見舞い申し上げます。寒い日が続きます。御自愛くださいませ。どうかごきげんよう                                                                                                       謹 白

 

                                                                    清   月       蓮