花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【79-3】『流転の海』全9巻 (その3 ) { 1~9巻のテーマ別  読後感を記載 }

宮本  輝 さま

 謹啓

今夜は『房江』さんが、私の耳元で〈囁く声〉が聴こえてきました。

 

《 …稀有な運命に従うように、できることはやってきました。幼い頃はただ哀しくて、実の父にも捨てられて、いつもひとりぽっちでした。『奉公先』では力の限り働いても、受けるのは『折檻』の鞭でした。よく無事に成人できたと、自分の過去を振り返ります。『義母』が勧めた最初の結婚は、私を苦しめる縄のようで、誰かの為に働く気力さえ体の中から抜けてゆきました。その時、逃げるように辿り着いた『姉の家族』のやさしさに、救われたのです。二人の『姪』から「字」を学び「手仕事」を教えてもらいながら、私もまた生きてもいいのかと…初めて思ったのです。『まち川』の仕事は、新しい人生の入口でした。眠っていた機転の速さや、どんなに苦しくても守り抜いた金銭への潔癖さを認められて、未来に希望も生まれました。そんな時、出逢った『熊吾』に強く惹かれてゆきました。そして『伸仁』を授かり、流れた日々は、家族と周りの人達を大切にして懸命に働いて暮らしました。

思えば、私の人生にはいつも「食べ物」がそばにありました。中でも人生の節目に必ず登場した『鰻重』の事はよく思い出されてきます。 心も体も疲れ果て『婚家』から逃げて来た『姉の家』で、寝ている『枕元』に用意してくれた『鰻』を、私は嫌いでしかなかったのです。なのに、学校に行けなかった劣等感を少しでも拭う為に始めた『ペン習字の修了証書』が届いた日に『伸仁』と大阪で食べた『鰻重』は、本当に美味しかった。不思議なのは『夫の裏切り』を知り、生きる希望さえ失くし、死ぬ気で『プロバリン』を買って向かった『城崎』で、またしても『鰻重』を食べることになったのです。胃の中の『鰻重』が、まるで私に「生きろ」と言っているかのように、命を救われたのです。ですから、救われた命を『息子』の為に生きることに決めました。「食べ物」を作ることならできますとも。『伸仁』を大学に通わせて、なんとしても卒業させることが、私のこれからの「息子への贖罪」です。今では『女』と暮らす『熊吾』の事は、憎いような、どうでもいいような、それでもやっぱり尊敬と愛おしい気持ちは隠せません。いつか私の元へ戻ってくるまで『多幸クラブの社員食堂』で、少しでも喜ばれる『料理』を作って頑張るつもりです。そんな日々が続いていたのに、いつのまにか夫の『糖尿病』は悪化して、とうとう倒れてしまいました。病院のベットで『父』と『息子』は、まるで『接吻」のように、長い時間『おでこをくっつけて』いました。記憶に残るこれまでの時間を、お互いに通い合わせていたのでしょうか。私は『熊吾』の『泣き顔』のような表情を見て「お父ちゃんよくやったね。約束を守ったね。本当におめでとう」と心の中で語りかけました。

夫が亡くなった次の日に、駆けつけて来てくれた人達。その姿を見た時、いつか『同じ光景』を見たことがあると感じたのです。    その時は、はっきりしませんでしたが、それは…そう、夫が『ペン習字の修了証書』の褒美に『万年筆』を買ってくれた日に入った『映画館』です。題名もわからないスクリーンに映し出された映画の『ラストシーン』が目に飛び込んできました。ボロとしか言いようのない衣服に身を包んだ多勢の人々。『ロバも猫も 犬も老人も子供』もいる一団が、みんな愉しげに、まるで希望に向かって旗を振りながら歩いている映像でした。その人達のこれまでの『苦労』など、観たくもありません。自分の『過去』だって考えたくもありません。ただ前へ向かって歓びに満ちて歩くだけです。その場面を思い出し、どのような『過去』があろうと、私の夫は『熊吾』ひとりであり、息子は『伸仁』だけだと、改めて思ったのです。これから、もうひと頑張りして、こんな風に朗らかに歩いてゆけば、必ず幸せな『大草原』に行けるだろうと、そう思ったのです… 》

 

この『房江』さんの《囁く声》は、私の思い込みが過分に入り混じっております。読みながら彼女と同苦し、幸せな時は共に歓ぶ事が出来た、とても身近に感じられる人でした。

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写真は、ひとり自分を見つめ、微笑みながら生きる『房江』さんの心のように感じてお借りしました。この白鳥のように、その後ろ姿のなんと美しいことでしょう。

ご自愛下さいませ。またお便り致します。どうかごきげんよう                                                                                                               謹白

 

                                                                  清    月        蓮