花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【59】『避暑地の猫』      宮 本  輝 著

宮 本  輝 さま

やっと梅雨らしくなってまいりました。次は『森の中の海』を読むつもりでおりましたが、もうすぐ貴方が軽井沢へ発たれると思いますと、急に『避暑地の猫』を読みたくなりました。今日は、私にとってとても難解な作品『避暑地の猫』についてお便り致します。

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この写真はとても美しいのですが、無垢から秘め事へと花開く気配を感じます。男と女の命の中に潜む、奥深い『魔』の存在を確かに伝えてくれる妖しくも美しい花です。作品の内容とイメージが重なりましたのでお借り致しました。

この作品は身を固くさせながら読み進めるしかなく、最後の最後まで本来的な救いは感じられず、心の奥に深く沈潜したまま十数年を過ごしております。以前にこの作品から感じていましたことは、未だ消化されず、またぺージを開いてしまいました。《善人》は、ほぼ登場せず、全ての人が、空恐ろしい怯えや戸惑いを読み手にもたらします。しかも、回想しながら語る設定なのに、絶えず現在を感じさせる巧みな書法なので、途中でやめられません。

《読み手が幸福を感じないような小説は書かない》と言われていたのに、何故この小説が生まれたのでしょう。以前も思いましたが「人間の命の自画像」に確かに存在する「影」を施す為に著されたのだろうと理解しております。人間のもつ恐ろしい『魔』というしか無い「心の闇」の全てが、これでもかと現れてきます。最後のだめ押しは、火で焼き殺された『母』のお腹には、赤ん坊までいたということです。離婚して『金次郎』と結ばれる事を現実として捉え、あのように蔑み続け裏切り続けた『夫』との子供です。このことは、精神と肉体には別々の魂が宿っているのかとの思いまで致しました。     

人間の為す罪の究極の悪は人殺しであり、しかも肉親を手にかけるのは、法律でも極悪の裁きを課せられるのだろうと思います。そして犯した人間のその後の生は『底なしの虚無』の中に放り込まれ、二度と浮かび上がることはできません。たとえどのような罪の償いを成そうと『自分が自分を罰する』意識は消えることはないのです。  唯一の救いは『父親』が、恋をしている『息子』の幸せを願って、自分の命を差し出し、全てをわが身に負ってでも助けたかった行為でしょう。『修平』はその『父』の心を無にしない為に『絹巻刑事』や『コックの岩木』の老獪な罠にも陥らず、平静を装い続け『時効』までの十五年間を、這うように生き延びたのです。

『…この宇宙の中で、善なるもの幸福へと誘う磁力と、悪なるもの、不幸へと誘う磁力とが、調和を保って律動し、かつ烈しく拮抗している現象…』

今現在、幸福だと感じていても、半歩先に暗い不幸への入り口が、大きく口を開けているかも知れず、その均衡の中を人は生きているのです。     恐ろしい計画を実行に移そうとしたにもかかわらず、読み手はどこか『修平』を憎みきれず、同情までしてしまうのは、この法則による働きを、絶えず感じ続けていた『修平』の心の迷いを読み取れるからでしょう。避暑地に住み着いた『猫』たちの正体を垣間見せる描写は、『猫』も人も、その場の環境により、差し出された避けられない状況によって、可愛いペットの猫のように生き続けることはできない…姉『美保』も『母親』も『志津』や殺された『金次郎の妻』も、心のどこかに猫を飼い、嫉妬の餌食になり欲望の誘惑に勝てず、自分の《心のまま》に操られてしまったのです。   

解き明かせない闇はあります。この作品から受ける衝撃と難解さとあまりの悲惨さは、読み手を幸福にしてはくれません。ですが 、事件の周りを縁取る別世界のような軽井沢への憧れ、『霧』に浮かぶ『三浦貴子』の清純な愛らしい姿、それらが、ある種の郷愁をもたらして『軽井沢の霧』に、何度も浸りたくなるようです。

近頃、一面曇り空ですが、雲の中の太陽は昼の明るさを忘れていないようです。厚い雲の奥から差し込む陽の光は、木の葉に残る雨の雫を小さく輝やかせています。やがて晴れ渡る日が必ず訪れるのを約束しているようです。お元気でお暮らしくださいませ。どうかごきげんよう

 

                                                                         清 月    蓮

 

【58】『骸骨ビルの庭』 上下巻    宮本  輝 著

真夏のような暑さが続きました。今年は梅雨入りしてから雨が少なくて、湿度が恋しくおもっております。今日は『骸骨ビルの庭』を読みましたのでお便り致します。

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 『骸骨ビル』と聞きますと、寂れて壊れかけた建物が浮かびますが、『英国人が設計した堅牢なビルヂング』で、空襲を奇跡的に免れました。アンテナが四方に出ていたからか、このビルから出てくる子供達が、骸骨のように痩せていたからか、この呼び名がつきました。正しい名称は『杉山ビルヂング』です。この写真に建築物の醸し出す重厚感を感じましたのでお借り致しました。

戦後のお話です。大阪十三で『戦災孤児』や、生活の苦しさから捨てられた『棄迷児』たち29名が この『骸骨ビルの庭』で育てられました。『阿部』と『茂木』の死に物狂いの懸命な努力によって、無事社会人になるまで生き抜いたのです。政府の補助も受けず借金を重ねての生活でした。ですから、庭に作られた野菜畑は、食べる糧を得る為の命懸けの戦いの場です。本の題名が『骸骨ビルの庭』なのはその為 なのでしょう。

『阿部』は、自分を偽善者だと決めつけた役人『M』への意地から『戦災孤児』を自力で育てる決意をします。肺を患っていた『茂木』を救いたい気持ちがそこに絡まり本気になってゆきました。 自己の生活は捨てざるを得ず、生涯独身で通し、孤児たちの養育に心血を注ぎ続けました。ですが月日の経過の後、育てた『夏美』の『嘘』により、マスコミに叩かれ、汚名を着せられ、不遇の内に死んだのです。

世の中は面白い方に傾き、誰かを悪党にして溜飲を下げます。最後まで『夏美』は自分の『嘘』を認めませんでした。キリストを裏切ったユダや釈迦に背いた提婆達多のようです。小さい頃 、人に褒められようとして良い事をしたり、わざと辛い仕事を引き受けている子供は、長じてどんな人間に育つかは、ひとつの判断の基準になります。元来、子供は楽しいことが好きで、嫌な仕事はやりたくないものです。『夏美』と『チャッピー』は正にそんな子供でした。二人の心の底には、恩ある人に『嫉妬』する感情と、期待に添って生きられなかった自分への恥辱に勝てない人間の姿がありました。

『嫉妬』は人のもつ最大の凶器です。この本に前後して「嫉妬の時代」《岸田秀著》を読みましたが、嫉妬の解剖図みたいなものを見た気がします。その抗し難さは、『嫉妬』の相手が立派であればあるほど、その心が抑えられなくなる人間の哀しい性です。絶えずその事を肝に命じておかなくてはなりません。人生の全てを誤らせるほどの威力をもつからです。

ビルを明け渡さなければならなくなった日に『茂木』から成人した『孤児』たちに手渡されたものは、彼らが子供の頃に描かせた『父と母の絵』と『阿部』がノートに書き続けた孤児たちの『幸せを願う膨大な祈りの言葉』が書かれたノートの写しでした。育った『骸骨ビル』に立ち、彼らは亡くなった筈の『阿部』の『存在』を全身で受け止めたのです。

『…優れた師を持たない人生には無為な徒労が待っている。なぜなら、絶えず揺れ動く我儘で横着で傲慢な 我が心を師とするしかないからだ』      戦後の最も劣悪な環境で他者のために出来る限りのことをした『阿部』に対する『報恩』は 、孤児たちの心と体に『魂魄』(こんぱく)を植え付け、たとえ何処にいようと、何をしていようと「誰かのために生きる」ことこそ使命だと刻みつけたのです。それは『阿部』を師として育ったからに他なりません。そんな物語として読み終えました。

近頃降る激しい雨ではなく、シトシト静かな雨が好きです。紫陽花がそんな雨に打たれながら花首を少しうつ向けて思案顔なのが美しいですね。今年も『慰霊の日』がやって来ました。戦争に対する無知は罪だと思います。知らない間に戦争に巻き込まれどうすることもできなくなる前に、一人一人が考えなければなりません。人の心の乱れは言葉に現れ、罵声が飛び、言いっ放しの目立つ世の中は本当に危険だと感じています。ご自愛くださいませ。どうかごきげんよう

 

                                                                      清 月    蓮

【57】『三十光年の星たち』上下巻  宮 本  輝 著

宮 本  輝 さま

お元気のことと思います。六月に入りますと、もう少しで軽井沢に行かれることを思い出し、少し寂しい気が致します。お仕事の効率を考えますと、喜ぶべきことですが。今日は『三十光年の星たち』を読みましたのでお便り致します。

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 曇り空の下で揺れながら咲く赤い花は、このお話に出てくる若い人たちのように見えます。ここには、戦後に夫や兄弟を亡くし、苦しい中で子供を守る為に頑張り通した女たちもいます。彼らは少しの手助けを受けた事で、暗い空に負けず明るく輝いているように感じてお借り致しました。

この物語には、『7時間かかるスープ』『アンティークの時計』『二千年前の蓮の種』『四十六年間毎日続けた柔道の型』『三十数年間に結ばれた連帯の輪』『久美浜に植えられた百年後の森』『何十年も極め続けた染色の技』…こんな途轍もない時間が示されています。その壮大さを思いますと、不思議なのですが、今起こっているつまらないことなど、何も気にならなくなります。『虎雄』がされたような、たとえ認められなくとも無視され続けようとも、そんな事はなんでもありません。ただひたすら今やるべきことに忠実に真っ直ぐ歩くだけです。その向こうにあるものなど今は考えまい。ともかくやってみるだけだと強く思わせて頂けました。強い人になりたければこの物語は優しい支えになってくれます。

この小説は7年前に毎日新聞に連載され、その後新潮社から上下二巻で発売されました。時代も携帯電話やナビが現れ、愉しみながら静かな気分でページが進みました。最初に読んだ時には『佐伯』を恐れながらも心の中で反発ばかりしている『仁志』の様子がおかしくて笑いながら読んでおりました。ですが、途中から、そんな気持ちが『仁志』を通して、次第に姿勢を正すように変わり、物語にこめられた課題に浸ってゆきました。

封建時代の主従関係でもなく、教師と生徒の関係でもない『佐伯』と『仁志』の間に流れる「気持ち」について考えてみました。そこには「師弟関係」と言うに相応しい感情の流れが見える気がします。師である『佐伯』が弟子を見抜くところから始まりますが、その眼力はどこに視点があったのでしょう。『仁志』は次々仕事も変え、経済的にも最悪であったのに『佐伯』が自分の思いの全てを託す程の何があったのかと考えますと『仁志』は、どこまでも正直で自分を飾ることなど微塵もなく『佐伯』の前であくまで裸になっていたのだろうと思います。それが75歳の『佐伯』にはかけがえのない資質だとわかったのです。彼は正直であるばかりではなく、様々なバイトで覚えたり考えたりしたことをしっかり身につけていました。ひとつひとつをいい加減には向き合っていなかった証拠です。それは彼の『父親』が唱え続けた『国家免許をとれ』と言う提言より何十倍も彼を育てていました。

『老プレス工』の言葉も出てきます。『場数を踏め。動け。口を動かすのは体を動かしてからにしろ。数をこなせ。そうすれば自然に体で覚えていく。体で覚えたものは何にでも応用がきく』

題名の『三十光年…』は何故三十年ではなかったのでしょう。作中にも三十年で仕事はできるとありますが、「仕事ができるようになってからが本当の勝負」なのだともあります。そこには最初に書いた通り、地球的時間軸では測れない宇宙のどこかに向かって生きていると考えれば、目先の悔しさや沽券や見栄は埃のようなものだと言われているように思いました。そして最終章に出てくる『三人の師弟関係』は、尊い思いを受け継ぐある方々を私に思い浮かべさせて頂けました。

日が長くなりました。夕方、食事の準備をしてから散歩に出かけます。西陽に照らされますが、今日も一日無事に乗り切れた充実感で、早足で歩けます。随分脚力がついたように思います。お暇が出来ましたら、たまにはラウンドをお楽しみくださいませ。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                        清 月   蓮

 

【56】『人間の幸福』     宮本 輝 著

宮本  輝さま

真夏のように暑い日が続いたり、少し肌寒かったり致します。たまにハッとして早朝に目覚めてしまう日があります。夜明け前に窓を開けますとひんやりとした風が部屋の中に流れて来て、もう一度眠ろうとしても上手くゆきません。そんな時はそのまま本を読むことにしています。今日は『人間の幸福』を読み終わりましたのでお便り致します。

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この写真は、見ている人を幸せな気持ちにしてくれます。柔らかい色の薔薇が緑の葉に包まれて、建物を這うように昇っています。下から見上げても窓辺から見下ろしても、とても美しく胸が高鳴ります。こんな花に囲まれていたら、きっと人は誰でも『幸福』な気持ちになるに違いないと思いお借りしました。

 

この物語を少し読み進めると、いつもの作品とは違うことに気づきます。憧れるような美しい人や、少し戸惑うような愛も、どうやら登場しそうもない気配です。この物語にはざっと27人が登場しますが、彼らは何処にでもいそうな、貧しすぎも豊かすぎもしない人たちです。大事件が起きない限り人のことを詮索したり、まして付け回したりなどしないでしょう。けれど、起きたのは『殺人事件』です。もし警察に自分が疑われたら厳しい尋問に耐えきれず、犯人にされてしまうかもしれません。そんな危機感から『敏幸』は自分で『犯人』探しを始めてしまい、他人を尾行するまでになってしまいます。『殺人事件』の犯人を追いながら、題名『人間の幸福』について、どこかに結びつく言葉が隠されているだろうと探してみました。意味を曲げないように気をつけて、簡略に書き出してみます。

《異常な寂しさをもつのは、今まで一度も人の為に生きたことがないから》

《ある一定の線より、ほんの少しだけ心根がきれいだったり、賢明だったりするだけで平和に生きていける》

《人を悲しませてはいけない。不思議なくらい、それはきみ悪いくらい、自分に返ってくる》

《他人の噂話が好きな人は、人から聞いた話に自分の想像をくっつけて、本当らしくまた他の誰かに話す》

《火のような人間と水のような人間がいる。火のような人間は激しく炎を上げても、一晩で豹変する。水のような人間は絶えることなく流れ続け、終着点までその役割をやめることはない》

《お前のは、俺のと違っていると腹をたてたり、馬鹿にしたりすることから戦争が始まるのかもしれない》

これらを抜き出してみて少し思い浮かんだことがありました。

それは、今月5日に、ボブディランさんがノーベル文学賞受賞に関して、《自分の楽曲に「文学」と呼ぶべきものがあるか否か》について記念講演をされた事です。ご本人の生の音源を聞くことができ、彼の言葉と語られる声は美しい一篇の詩のように感じました。ですが、彼の答えは「NO」だそうです。何故「NO」かというと《音楽は歌われるためにあるもので、読むためにあるのではない》という考え方でした。心を高揚させ人々に訴えるのは文学と同じですが、音楽は主に人の感受性に訴えるものであるとも述べられていました。彼の歌詞は《…答えは風の中にある…》と結ばれています。

上に書き出した『人間の幸福』の中に書かれた言葉とを読み比べてみると、読み手がそれについて何度も反芻でき、物語に感動しながらも自らの身に感情ではなくはっきりとした定理として示されている事は、文学の魅力のひとつかも知れないと思いました。   人が幸せに暮らす為の、夢のような指南書は簡単ではなさそうです。ここでは『人間の幸福』の基準は、常に『平凡な生活』の中にあり、誠実に懸命に生きる事に尽きると書かれているように思います。万一、非日常的な事件が持ち上がれば、人間がどんな風に動いてしまうか、自分を守るためにどんな思考を広げ、人を疑ったりついには落としめることもあるのです。そんな遠回りをする事はあっても、この結末のように、どんな状況に追い詰められようが、人は『人間の幸福』の為には努力を惜しまない事も理解することができました。

梅雨入りして、紫陽花たちは、解放されたように一斉に咲き出しています。どこを歩いても明るい色が目につくこの時期は、とても心が弾みます。梅雨の合間の散歩をお楽しみくだされば嬉しく思います。ご自愛くださいますように。またお便り致します。どうかごきげんよう。 

 

                                                                        清 月    蓮

 

【55】『不良馬場』宮本 輝 著   『星々の悲しみ』に収録

宮本 輝 さま

お元気でおられますか。真夏のように暑い日が続きます。今からこれでは、今年の夏が思いやられます。梅雨が近づいておりますが、あまり豪雨にならないよう祈るばかりです。今日は『不良馬場』を読みましたので、お便り致します。

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 木々の間で、深い緑に光を遮られて咲く花は『寺井』の心のようです。『寺井』の肺に空いた『空洞』は、遅々として閉じず、社会からも会社からも忘れられたように感じています。どうすることも出来ず、隔離された病院のベットの上で、一刻一刻を耐えるしかありません。この花はそんな心のように寂しそうに健気に咲いていて、心惹かれましたのでお借り致しました。

この短編の中に少し書かれている『西宮球場』は 今はもうありません。ガーデンズという広くてとても近代的なショッピングモールになりました。楽し気にゆき過ぎる人々は幸せすぎる顔をしているように見えて、いつもふと立ち止まってしまいます。また、門戸厄神駅近くの『病院』は、私の知人や友人が、度々入院していたので、何度も訪れた病院だろうと思います。仁川の『競馬場』も、今は新しくなりましたが、横を走る中津浜線は毎週のように、車で通る道路です。

アメリカへの転勤を約束されていた直前に『寺井』は肺結核に罹り、実家に近い病院に入院しなければならなくなりました。妻は母との『嫁姑の争い』に我慢できず、自分の実家のある東京に仕事を見つけて、帰ってしまいました。見舞いにはニヶ月に一度しか来なくなります。学生時代からの友人『花岡』は、これまで一度も見舞いには現れず、初めて『花岡』が見舞いにやってきた日から、この物語は始まります。『花岡』は 軽いゲームのつもりで『寺井』の『妻』と情事に堕ち、さすがに見舞いには来にくかったのです。『寺井』は、多分その事を察しているのだろうと思います。

『寺井』は、商社マンだった頃、『相手の弱点をじんわり刺し抜くような皮肉っぽい口調』の人でした。二年間の闘病生活で 、彼は『落ち着きと優しさがこもった』口ぶりに変わっていました。ここで宮本輝さんは、さりげなく、病いに苦しんで自暴自棄になったり、諦めたりしないで耐え忍ぶ事がもたらす人格的な進展について書かれているように感じます。この病棟に集まって来た人は、運が良いとも思えず、裕福な人もいそうにありません。ですが、苦しみを共有して相手を思いやる心が育ち、人に優しくなり、相手の喜ぶことをする人ばかりです。その事に気付いた『寺井』は、今まで悶々と考え、悩み抜いていた自分の人生の目標や価値に、まるで『憑物が落ちた』ように何かが抜けてゆくのを感じます。『こんなのに やられてたまるかよ』と自分の胸を叩き 、生と死の格闘に目覚めたのだろうと思いました。

降りしきるこぬか雨に、ぬかるんだ競馬場。そこで起こった最後の直線コースの悲惨な事故。二頭の馬がもつれ合い、一頭が叩き潰されてのたうち、血を吹き出して倒れます。こんな残酷な描写には目を覆いたくなりますが、最後にどうしても書かれていて欲しい事のように思います。それは 確かに友と妻の「不実の報い」を連想させるからです。馬の脚が折れた最後の描写は凄まじく『寺井』の心の中を 垣間見たように感じます。そして一緒に観ていた『花岡』の心には、火のついたように踊り狂い、崩れおちた馬の姿が、たとえ何処へ行こうと、不気味な陰影で付いて回わる気がします。萎えてしまった500円札を握りしめていたあの老人の姿と共に。せめてそうでなくては救われません。

先ほど  荒れ狂うような激しい雨と雷がしばらく続きました。夜の雨は少し不安ですが、今は昼間の熱や埃をすっかり流したようで、外へ出ますと、湿気を帯びた清々しい香りが致しました。どうかゆっくりおやすみくださいますように。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                         清 月  蓮

 

【54-2】『葡萄と郷愁』 宮 本  輝 著 《 角川文庫ー解説について 》  

 

宮本  輝さま

お元気のことと思います。今週は次の作品についてお手紙しようと思っておりましたが、先週の『葡萄と郷愁』の「解説」に少し疑問があります。角川文庫の『葡萄と郷愁』の最後に、連城三紀彦さんが書かれていた「解説」なのですが、今日はそのことについてお便り致します。

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 この写真は日本海ではありませんが、波のうねりと光に、いつか見た『幻の光』の舞台『曽々木の海』に通じるものを感じましたのでお借りしました。

何故『幻の光』かと申しますと『葡萄と郷愁』の「解説」の冒頭で、その事に触れられていたからです。

この「解説文」は、とても研ぎ澄まされた文章だと感じました。その中で少し思ったことについて書いてみます。

連城さんは、佐渡の日没後の海で『幻の光』に遭遇されたかもしれないそうです。それは《残照ではない、空自体がもっている不思議な明るい光》とあります。ですが、作品の中の『幻の光』は、空や、雲間や、海と空の間の光のことではなく、海上に見える強い《光の塊》のような輝きであったという記憶があります。私の勘違いだったでしょうか。いつか、海の上に、そこだけキラキラした強い光線に、まるで射抜かれたような海の輝きを見た覚えがあります。読み手は実に様々な自分の体験から、物語の内容を解釈するものだと、改めて思います。

また、読み進めますと、宮本輝さんの作中の実際の場所を訪れてみたくなったり、夢中で読んでいる途中で、出てくる食べ物を無性に食べたくもなることについて書かれています。けれど、このような実体験を喜ぶのは「宮本輝観光客」だとの指摘がありました。感動した物語の地を、この目で見てみたいと思うのは自然の欲求だろうと思います。せめて作品を辿る旅人、位の言葉にして頂ければよかったように感じます。

最後に、もう少し解説を読み進めますと、こんな文章に出会います。

《人を風景のように見ると言う、僕が最近になってやっと得た目を、実は宮本さんは子供の頃から既にもっていた…》というものです。

本当にそうなのでしょうか。人が『風景』を見るとき、対象物から少なくとも一定の距離を取らなければなりません。そうしなければ見えないからです。しかもある意味、無機物のように周りの人間を見つめる必要があります。宮本輝さんはそんな子供だったのでしょうか。  私にはどうしても、子供の頃に、そんな見方をされていたとは思えません。心にとまった朧げな映像や、何故かそこだけ鮮明な記憶の断片が、大人になってから、それらを蘇らせ、血が吹き込まれたのではないかと思っております。  確かに宮本輝さんの作品には、多くの登場人物が出てくるものがありますが、その中の誰一人にも、作り物の無機物な要素を露ほども感じないのは、人を「風景」として見るどころか、その人間の内部に深く潜り込み、息を吹きこみ、血を通わせておられるからだと思うのです。ほんの端役みたいに登場する人物にまで、その人独特の性格を読み手に感じさせて、実際に目の前にその像が現れるほどです。それをエッセイの中で「憑依」と仰っています。ですから、人間を『風景』などと思われているとの記述に疑問を感じました。   プロの人にしかわからない表現なのかもしれませんね。  宮本輝さんの小説は、書き出す時に一度その人物を「風景」のように客観視したり、性的な普遍性に静かな目を保ちながら、胸の中の登場人物への愛情を包んでいた薄皮を、少しづつ剥がしながら、とても自然に書く行為へと繋がってゆくのだろう想像致します。勝手なファンの願いかもしれません。

それにしてもこの解説文は、見事にこの物語を「ひと房の葡萄」と結び付け、作品に構築されたもの…地球上の時間の距離と、地理的距離と、男と女の愛情に賭ける距離を見事に解き明かし、私の前に見せてくださいました。まるでデパートの贈答品の箱に入ったキズ一つ無いマスカットを連想する程に正確で、納得のゆくものでした。

世界はめまぐるしい程に、激しく変化しているように感じます。言葉の品格に欠ける発言が、日本の政治を司る方々から毎日のように飛び出すのは、とても恥ずかしく悲しい気が致します。暑さに向かう時期に入りました。ご自愛くださいますように。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                         清 月  蓮

 

【54-1】『葡萄 と 郷愁』 宮 本 輝 著

 

宮本 輝 さま

暑くもなく寒くもないありがたい季節がやってまいりました。入梅までのこの時期は、清々しくて生き返るように感じます。毎日の散歩が楽しくなりました。今日は『葡萄と郷愁』を読み終わりましたのでお便り致します。

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 この写真は物語の中の『アンドレア』に捧げたいと思います。闇に咲く紫の花は、彼女の短い人生に浮かび上がった深い悲しみを映し撮っているように感じてお借りしました。この方の写真は、生前の父の写真に似ています。初めてそれに気づいたのは、ぼんやりの私ではなく姉でした。

物語は『東京』と『ブダペスト』の時間の推移と共に進みます。『ブダペストのアギー』と『東京の純子』の二人が重大な決断をするまでの物語です。時間と場所が、国の事情の違いが、交互に現れ、捻れ合って、もう一つ別の味わいをもたらしてくれます。主旋律ではないのかもしれませんが、読み終わり、心に浮かびましたことを書いてみます。これはとても文学性の濃い作品です。

幼い時期に母を亡くし、悲嘆にくれてお酒に潰れた『父』を守り、逞しく生き抜く『アギー』は、孤独と苦難の生活に耐え、今『おとぎ話』のような『アメリカでの豊かな生活』を目の前にして迷っています。決断の時が迫ります。『郷愁』に包まれて暮らすことを選ぶか、夢を叶える為に現在を捨てるかの選択のようにみえますが『アギー』は、現在の自分の生活の中に『希望』があるか、ないかの答えを探しあぐね、迷っていたように思います。けれども、その選択すら与えられなかった『アンドレア』がすぐそばにいました。   『アンドレア』は早朝の『地下鉄』に飛びこんで命を終えたのです。その直前まで、周りのクラスメートにお金を貸してあげたり、電話をかけて『さびしい』と訴えています。全ては、仲間と一緒にパーティに誘われたり、ワインを飲んで喋ったりしたかったのです。ですが級友たちは彼女を『石の女』と呼び合い、挨拶以上の距離には近づきませんでした。身体が貧弱で学歴もない『ゾルターン』なら、自分を愛してくれるかもしれないと『アンドレア』は恋人のふりをしますが、それも見破られ、唯一、書き続けていた小説も、才能などかけらもないと言われます。『父』は共産党幹部で祖国からも逃げたくとも逃げれず、行き場をなくしてしまったのでしょう。

『寂しさ』は、大勢の人が自分の目の前にいるのに、一人ぼっちだと感じた時に、絶望に変わるのかもしれません。希望を断たれた『アンドレア』の自殺は、彼女の生まれた時より、もっともっと以前の『何千年の過去』から、彼女の中に『地下鉄の音』をもたらしたように思います。人は生まれて物心ついた頃、心の中にある孤独に既に気づいていて、幼い頃、幸せであったとしても、避けることは出来ず、忍び寄って来るものです。『アンドレア』に比して、『純子』の幼馴染の『いつ子』は、両腕を失くし、もっともっと孤独であったでしょう。でも明るく笑顔で懸命に努力して、自分の未来を現在に引き寄せたのです。そこには『いつ子』を愛する「両親と幼馴染」の存在がありました。そう思いますと、対照的な『アンドレア』に、いたたまれなさを感じて、たまらなくなりました。

近頃山火事が多発しています。乾燥と強風がもたらす惨事に心が痛みますが、出火の直接の原因は殆ど人の不注意だとのことです。山に木がなければ水も蓄えられず、川にも水は流れません。大切にしなければと思います。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                       清 月   蓮