【79-1】『流転の海』全9巻 (その1 ) { 1~9巻のテーマ別 読後感を記載 }
宮本 輝 さま
謹啓
『流転の海』よりも前に読んだ作品から、自分なりに受け取らせて頂いた事柄で、何が一番の歓びかと言えば、それは「死への確証」だろうと思います。 ある時、作品を読み終えた途端、目の前に、猛烈な勢いで流れ落ちる光の滝を見たのです。それが意味するものを、私は知りません。その時以来、心の中にストンと落ちてきた死への想念が、確かに今も消えずに、ずっと身体にいてくれます。
以前なら、楽しい時間を、友や家族と賑やかに過ごしていても「私は、いつか呼吸ができなくなり、踠き苦しんで、物も食べられなくなり、衰弱し、死に果てることになるのだ」という絶対的事実に、とても恐怖をもっていたのです。醜い老婆となり、皆に憐れまれて死んでゆくのだという考えが、絶えず頭をよぎっておりました。
そんな私が、今は心から『死は生が形を変えただけ』であり『一つの通過点』だと心底思えるのです。未来には虹も見えます。
以来、作家 宮本 輝さんは、私淑する唯お一人の小説家なのです。 年月をかけて、作品を追い続けることは、大きな歓喜となりました。かけがえのない命の意味と、生きる為の沢山の秘儀を教えて頂けたのですから。こんなにも快活に朗らかに生きていけるではありませんか。
さらに『流転の海』全9巻を読み返すうちに、益々それが確実性を増し、強固になってゆくのを感じております。何故なら、こんなに多勢の人達の生きる姿や、死にゆく姿を見せて頂けたのです。この場面のこの言葉…などとディテールを追うことは、今日はひとつだけにしておくことに致します。 読めば読むほど、胸に広がる「安心感」のようなもの…それこそが、原稿用紙7000枚から立ち昇る、温かな息遣いでなくて、なんだというのでしょう。そしてもう一つは、お父上『熊吾』の、息子への慈しみの言葉が、胸の奥深くに沁み入ってきます。最後の『野の春』で『熊吾』は『伸仁』にこう言います。
『わしはお前が生まれた時からずっと、この子には他の誰にもない秀でたものがあると思うてきた。どこがどう秀でちょるのかわからんままに、何か格別に秀でたものをもっちょる子じゃとおもいつづけてきたんじゃ。しかしそれはどうも親の欲目じゃったようじゃ。お前にはなんにもなかった。秀でたものなんか、どこを探してもない男じゃった。お前は父親にそんな過度の期待を抱かれて、さぞ重荷じゃったことじゃろう。もうしわけなかった。このわしの親の欲目を許してくれ』
ひ弱な体で産まれた『伸仁』を無事に成人させ、心優しい、多くの人から愛される、懐の深い男に育てあげる為に、病いの時は懐に入れ、雪道を転げ走って医者に診せ、また息子が瀕死の高熱で、水さえ受け付けない時に、自ら鶏を潰し、夜を徹して命のスープを作って飲ませ、息子を救った父でした。
今は、妻にも愛想をつかされ、あった筈の財力も、体力も、全てを失いました。そんな『熊吾』が最後の最後の力を振り絞って、息子に「伝えた言葉」がここにありました。「息子よ、お前はこれから、血の出るような努力をせにゃーいけん。そうやなければ、お前の中に眠っちょる秀でたもんは姿を現わさんぞ」と…
これが残された『熊吾』ができる息子への出来る限りのエールだったのだと思います。上に抜粋した父の残した言葉の『裏』を、息子はいつかきっとわかる筈だと信じたのです。小さい頃から世の中の『表も裏』も見せてきたのですから。
写真は、死の間際まで、息子を愛し、周りの人々を案じ、妻にこうべを垂れながら、心は熱く燃え盛っていた『火の玉 熊吾』の心を写したような一枚をお借りしました。 またお便り致します。どうかごきげんよう。
謹白
清 月 蓮