花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【79-5】『流転の海』 全9巻 (その 5) {1~9巻のテーマ別  読後感を記載 }

宮本  輝 さま

 謹啓

長い物語の中の、心に残るシーンを思い浮かべております。

衝撃的で、恐ろしいほど忘れ難いシーンは、いくつかありましたが「血や戦い」を伴うので、怖くて、早読みをしてやり過ごしたかも知れません。読み終わって浮かぶのは「幸せな瞬間」が描かれていた場面かと思います。『地の星』では可愛い『伸仁』が振り回す虫取り網、『血脈の火』では、血の繋がらない『正澄』と『美恵』が、仲良く『同じ布団』で眠る幸福そうな寝顔が見えた気がしました。中でも一番好きなシーンは、『野の春』に描かれていた14人の『熊吾』を慕う人たちが、彼の死を知らされて『駆けつける場面』を思い描くことでした。『熊吾』は亡くなりましたが、心の中を悲しみの涙ではない、何か温かいものに満たされてゆくのを感じました。本当に素晴らしいラストシーンでした。最後までこの物語を読ませて頂けた幸せを強く感じました。改めてお礼申し上げます。

私も父を亡くしたのは春でした。

今でも鮮明に浮かぶ光景があります。枚方市の古い病院で、93歳で亡くなったのですが、自宅へ一度連れ帰る事も叶わず、姉とふた晩の通夜の後、簡単な葬儀を済ませて、いよいよ火葬場へ行く時間になりました。その時、疲れ果てていた体の奥から、不意に大きな悲しみが湧き出しました。いつか見たあの業火のような強い炎に、父の体が焼かれてしまうのだと気づいたのです。不安な気持ちのまま小さな車に乗りました。窓を開けると、ちょうど桜の散る時期で 、花びらが風に舞いながら窓から入ってきました。道の右側は細い川です。せせらぎの音が聴こえます。堤には、芝桜の桃色の帯が続き、たんぽぽや、まだ咲き残っていたレンギョウが風に揺れるのが見えたのです。なんて美しい春の日だろう。父は春に生まれ、春に天に旅立つのです。こんなに祝福されて…

父は最後の10年は、殆ど寝たきりで、トイレになんとか立てるくらいでした。若い頃、お洒落でカメラが好きで、文芸にも目を向ける人でしたが、最後はすっかり白くなった髪を気遣う力もなくなっていました。自己主張も強く『熊吾』に似たところも沢山ありました。病いに伏せるまでは、寧ろ父を許せなかった気持ちが強かったのです。横暴で我儘で自己中心的で激情を抑えられない人だったからです。そんな父が、看病していた時期には、私の顔を見ると、いつも「ええでェ、父ちゃん平気や、おおきになぁ」とばかり繰り返していました。人は死期が近づくと「仏の心」になるんだと思ったものでした。『房江』が『熊吾』に最後に言った言葉『…お父ちゃん、これまでのこと、全部帳消しにしてあげる』……遠い日の父に、私も同じことをそっと呟きました。

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写真は、全てを許して、晴れた心のような美しい一枚をお借り致しました。今年もあと僅かです。良いお年をお迎え下さいませ。また新年にお便り致します。どうかごきげんよう                                                                      

                                                                               謹白                                                                             

                     清 月    蓮