花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【59】『避暑地の猫』      宮 本  輝 著

宮 本  輝 さま

やっと梅雨らしくなってまいりました。次は『森の中の海』を読むつもりでおりましたが、もうすぐ貴方が軽井沢へ発たれると思いますと、急に『避暑地の猫』を読みたくなりました。今日は、私にとってとても難解な作品『避暑地の猫』についてお便り致します。

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この写真はとても美しいのですが、無垢から秘め事へと花開く気配を感じます。男と女の命の中に潜む、奥深い『魔』の存在を確かに伝えてくれる妖しくも美しい花です。作品の内容とイメージが重なりましたのでお借り致しました。

この作品は身を固くさせながら読み進めるしかなく、最後の最後まで本来的な救いは感じられず、心の奥に深く沈潜したまま十数年を過ごしております。以前にこの作品から感じていましたことは、未だ消化されず、またぺージを開いてしまいました。《善人》は、ほぼ登場せず、全ての人が、空恐ろしい怯えや戸惑いを読み手にもたらします。しかも、回想しながら語る設定なのに、絶えず現在を感じさせる巧みな書法なので、途中でやめられません。

《読み手が幸福を感じないような小説は書かない》と言われていたのに、何故この小説が生まれたのでしょう。以前も思いましたが「人間の命の自画像」に確かに存在する「影」を施す為に著されたのだろうと理解しております。人間のもつ恐ろしい『魔』というしか無い「心の闇」の全てが、これでもかと現れてきます。最後のだめ押しは、火で焼き殺された『母』のお腹には、赤ん坊までいたということです。離婚して『金次郎』と結ばれる事を現実として捉え、あのように蔑み続け裏切り続けた『夫』との子供です。このことは、精神と肉体には別々の魂が宿っているのかとの思いまで致しました。     

人間の為す罪の究極の悪は人殺しであり、しかも肉親を手にかけるのは、法律でも極悪の裁きを課せられるのだろうと思います。そして犯した人間のその後の生は『底なしの虚無』の中に放り込まれ、二度と浮かび上がることはできません。たとえどのような罪の償いを成そうと『自分が自分を罰する』意識は消えることはないのです。  唯一の救いは『父親』が、恋をしている『息子』の幸せを願って、自分の命を差し出し、全てをわが身に負ってでも助けたかった行為でしょう。『修平』はその『父』の心を無にしない為に『絹巻刑事』や『コックの岩木』の老獪な罠にも陥らず、平静を装い続け『時効』までの十五年間を、這うように生き延びたのです。

『…この宇宙の中で、善なるもの幸福へと誘う磁力と、悪なるもの、不幸へと誘う磁力とが、調和を保って律動し、かつ烈しく拮抗している現象…』

今現在、幸福だと感じていても、半歩先に暗い不幸への入り口が、大きく口を開けているかも知れず、その均衡の中を人は生きているのです。     恐ろしい計画を実行に移そうとしたにもかかわらず、読み手はどこか『修平』を憎みきれず、同情までしてしまうのは、この法則による働きを、絶えず感じ続けていた『修平』の心の迷いを読み取れるからでしょう。避暑地に住み着いた『猫』たちの正体を垣間見せる描写は、『猫』も人も、その場の環境により、差し出された避けられない状況によって、可愛いペットの猫のように生き続けることはできない…姉『美保』も『母親』も『志津』や殺された『金次郎の妻』も、心のどこかに猫を飼い、嫉妬の餌食になり欲望の誘惑に勝てず、自分の《心のまま》に操られてしまったのです。   

解き明かせない闇はあります。この作品から受ける衝撃と難解さとあまりの悲惨さは、読み手を幸福にしてはくれません。ですが 、事件の周りを縁取る別世界のような軽井沢への憧れ、『霧』に浮かぶ『三浦貴子』の清純な愛らしい姿、それらが、ある種の郷愁をもたらして『軽井沢の霧』に、何度も浸りたくなるようです。

近頃、一面曇り空ですが、雲の中の太陽は昼の明るさを忘れていないようです。厚い雲の奥から差し込む陽の光は、木の葉に残る雨の雫を小さく輝やかせています。やがて晴れ渡る日が必ず訪れるのを約束しているようです。お元気でお暮らしくださいませ。どうかごきげんよう

 

                                                                         清 月    蓮