花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【68】『海辺の扉』 宮 本  輝 著  《上・下巻 》

 

宮 本  輝 さま

お元気でおられますか。秋の富山は如何でしたでしょうか。さぞかし充実された日々であっただろうと想像をしておりました。美味しい海の幸も堪能され、空気の澄み切った美しい街並みを歩かれたことでしょう。今日は『海辺の扉』を読みましたので、お便り致します。

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ギリシャには行った事はありません。『満典』が『エフィ』にギリシャ語を習い始めて、二人がチグハグな『会話』を交わした場面を読んだ時、この写真とピタリと結び付きました。夕闇が迫る静かな風景があまりに美しく、国を超えた映像を感じましたのでお借り致しました。

世の中には幸せが溢れているのと同時に、不幸も数知れず起こります。自然災害や戦争や苦しい病気、あろうことか自分の子を虐待したり、事故や生まれながらの障害、盗まれたり失ったり騙されたりフラれたり、嫉妬を抱かれ意地悪にあったり…そんな中で、立ち直れないくらいの不幸とは、自分の愛する子供を、思いも依らない過失から死に至らしめてしまった親の生涯です。その後の人生をどうやって生きられるというのでしょう。このお話はそんなどん底からの再生の物語です。

日本で『満典』に起きた悲劇。自分の子を思いもよらない一瞬の自らの過失によって、喪ってしまいます。『妻』やその両親にも罵倒の限りをぶつけられ、離婚を望まれて、ひとり日本を出ます。

『野良犬』のように生きるしかないではないか。『満典』は、夢か幻のような生活をギリシャでおくり続けています。愛も仕事も全てが偽りの、生きる術だけの生活の中にいた時、『ギリシャ国立博物館』で、死んだ『息子』にそっくりな『アルタミスの馬と乗り手』の像に出逢います。それは、過去を忘れようとして忘れられなかった『満典』の心を強く揺さぶり、やがて『エフィ』の言葉から、もう一度、死んだ『息子』に会いたいと本気で望むようになります。

亡くなった人に、あの世ではなく、「現在の生」の中でまた「会える」という思索は、もう一度生き直せると信じられるほどの勇気を『満典』にもたらしたのです。それを信じるのも否定するのも自由なのですが、苦しみの果てに、確かにそうだと信じた時、心は今まで味わったことの無い解放感に溢れ、自分の未来に希望を抱くことができたのでしょう。そこには落ち着いた深い『エフィ』の愛がありました。『満典』の離婚した妻への嫉妬や疑惑にも負けず、自分を律し『お腹の子』を愛の代替え品とせず、潔くひたすら『満典』の心を待ち続けたのです。『エフィ』にとって、待ち続けた海辺には確かに未来への『扉』が見えたのです。

人は不幸のまま生きてゆくのは間違いです。たとえどんな罪を侵したとしても、どんな不幸が襲ったとしても、どんな失敗を為しても、誰もがどうにかして幸せにならなければならないのです。生きる『使命』は少しでも人に幸せを送れることに違いないのですが、自分の不幸を解決できなければ、自分を幸せにできないなら、人を幸せにできよう筈がないと思っています。

別れた『妻』も、『満典』を奈落から救い出してくれた『エフィ』も、やはり幸せにならなければなりません。『満典』はそのことに気づき、新たな出発をしました。    

この物語の展開は見事という他なく、スリルの波に乗りながら、自分の子や、女の人に対する愛と肉欲に苦しむ『満典』の心の揺れに胸が疼きます。頭の中では、次々現れるパズルのような小さな出来事が繋がってゆき、読む愉しみを頂点まで引き上げてくれました。小説とは、どこまでも読む面白さを与えてくれること、その上に生きる為の大切な道標を示されているものが『良い小説』であると深く感じることができました。

秋の長雨が続いています。少しでも家の中を明るくしようと、小さなことですが、飾り物や椅子のカバーを変えて、なんとか気分を保っております。愉しいお話を読ませて頂き、元気を頂く思いです。またお便り致します。どうかごきげんよう

 

                                                                   清  月    蓮