花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【66-1】『朝の歓び』宮 本  輝 著   《上巻》

 宮 本  輝 さま

虫の音が力を増してまいりました。命の限り、力の限り、鳴き競っているように感じます。いかがお過ごしでおられますか。温かいお茶が美味しくて、そばに置きながらの読書は、夜の愉しみです。今日は『朝の歓び』《上巻》を読ませて頂きましたのでお便り致します。

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 この写真を撮られた方が、何度も現地に赴かれ、シャッターをきられたであろう沢山の写真の中の一枚です。『ぼら待ちやぐら』のそばで『日出子』は、妻を亡くした『良介』を待ち『良介』は、四年前に別れた『日出子』に会えないものかと、辺りを見回していた場所です。「待つ」ことの寂しさと忍耐を現しながら、物語の情景が浮かぶこの写真をお借り致しました。

『朝の 歓び』は、1992年9月から1993年10月まで、「日本経済新聞」に連載されました。その頃、沢山の企業戦士の方々が、通勤電車の中や、会社に着いてからの少しの時間に、この小説を読まれていた様子を想像致しますと、なんだか微笑ましい気が致します。誰でも一度は今の会社を辞めて、自由気ままに暮らしてみたいと思うでしょうし、妻以外に関係を持てる女の人のことを夢想するものす。そして長い休暇を、贅沢な海外旅行に使ってみたいとも思うでしょう。見事に具現されている物語を、きっと密かに愉しまれたことでしょう。大人の恋愛だけでは終わらない、誤解や、欲望や、嫉妬や、疑惑を孕みながら、沢山の硝子の『かけら』のように輝きながら、お話は進んでゆきます。

《上巻》の『かけら』の中のひとつに『パウロと両親』について書かれています。 イタリア・ボジターノに『パウロ』は住んでいて『日出子』が『パウロ』に「また会いにくる」と約束をしたのは、『パウロ』が六歳の時。彼は『精神薄弱児』で生まれ、現在十九歳です。今『日出子』は『良介』に背中を押されて、急な崖の上に建つ『パウロの家』に向かっています。

そこで見たものは、絶えず「貴方を愛している」と信号を送り続けながら、常に『朗らか』でいることを貫いてきた『パウロの両親』の姿でした。朗らかでいるための血の出るような辛抱。ご両親の『ガブリーノさんとその妻』にだって、きっと『パウロ』が寝静まった苦渋の夜が、幾夜もあった筈です。十九歳になった『パウロ』は、自分の仕事を懸命にこなし、ひとりでバスに乗って、仕事場へ行けるようになりました。その姿が『日出子』と『良介』にもたらしたものは、今までのつまらない焦燥や我儘や迷いを見事に吹き飛ばす荘厳な感動だったのです。

目の前に現れた愛情の実像は、人の心を浄化し、出会った人の生き方にまで勇気を与えます。『全身を打つ雨』のように、全ての穢れたものを洗い流す力をもっていました。揺るぎない子への想いに触れる時、いのちの限りない可能性と尊厳に、途轍もない感謝の気持ちに包まれます。

それに致しましても、『良介』と『日出子』の性の行為の描写は瑞々しく、美しく、それでも尚『生前の妻』を思い出す『良介』の心の深淵があり、男と女の漂うような、終着点も曖昧な、それでいて確かめ合わずにはいられない縺れ合った性の不思議を感じました。伴って『妻の死期』の場面に挿入されている『生老病死』は『苦しみ』が自らを鍛え、豊かにし、荘厳な命を『四面』からなる輝かしい『宝塔』に表わされています。『妻の死』は、死してなお生きるいのちを『良介』の心に刻みつけていたのです。

世界中の人々の心が、静かな平和へと向かって欲しいと、毎日願っております。相手への攻撃は何も生みはしないと強く思います。そんな事を祈りながら、次は《下巻》についてお便りさせて頂きます。お忙しい毎日でおられる事と思いますが、ご自愛のほど、お元気でお過ごし下さいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                  清  月     蓮

 

【65】『ここに地終わり 海始まる』宮本  輝 著 上・下巻

 宮 本  輝 さま

身体が涼しさに慣れて過ごし易い毎日かと思っておりましたら、真夏のような暑い日もありました。陽が早く沈み、夕食後の時間がとてもゆったり感じます。好きな音楽を低く流しながら、本を読むのは本当に愉しい時間です。今日は『ここに地終わり 海始まる』を読みましたのでお便り致します。

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 葉陰で揺れる紅い実は、高原の風を受けています。『志穂子』が十八年間を過ごした『軽井沢の療養所』の近くには、こんな可愛い実のなる木があったと想像しています。木漏れ日が明るく輝いて、透き通るように美しく、葉音がさわさわ聴こえてくるように感じましたのでお借り致しました。

この物語は、俗世間の汚れを知らない、恋には無垢な『志穂子』が、最後は誰と結ばれるのだろうとドキドキしながら読み進めました。ロマンへの憧れを沸き立たせながら、深い意味が沈められている『題名』からも示唆を頂きました。

もしも『志穂子』が『梶井』と『尾辻』の二人の内、一人を選ぶとしたら…穏やかで思慮深い『志穂子』は、広い心で愛してくれる『尾辻』の胸に、静かに自分の未来を委ねるだろうと予想して読んでおりました。ですが『志穂子』を十八年の闘病生活から救った『奇跡の電源』は、一度だけ舞台に立ち、演奏していた姿を見ただけの『梶井』からの一枚の『葉書』だったのです。その中の言葉が『志穂子』の命の中に眠っていたものに火を点け、その焔は身体中を燃え上がらせる程の力を与えたのです。人間の命に仕組まれた『電源』とはなんて凄い力を持っていたのでしょう。初恋と呼ぶにはあまりに強い稲妻のような電流でした。では、どうして『志穂子』は、嘘つきでいい加減で、過去に幾人かの女性の影が見える『梶井』に抱かれたいと思ったのでしょう。

例えば言葉、例えば自分への思いやりの行為、それらに感謝することを超えて存在するもの…それは多分その人の目の光から、声のトーンや、単なる気配から…自分の中に直に伝わる何かなのかもしれません。『志穂子』はそれに従いたかったのでしょう。いのちは、奥の奥で、心のそのまた奥で、身体中が燃えあがるような、頭で考えても制御できないような、勘とも言えず本能とも言えない不思議な力を持っているのです。敢えて言葉にすれば、いのちの精 の仕業のような気がしています。

『地の終わり』は過去の自分と訣別し、悪い過去を捨て去ると言う意味で、『海始まる』は新生した自分のいのちの始まりを意味するのでしょう。それは簡単には出来るはずのない、ゲームのリセットのようにはいかないのです。ですが、人が心の底から自分の過去を改め、今までの生き方を変革したいと決意したとすれば、その場所こそ『ここに地終わり 海始まる』処だと思います。してはいけないことをしてしまった懺悔や、忘れ去れない後悔や、軽率な判断から人を傷つけたとしても、時間の熟成を待ち、彷徨いながらもたどり着けるのです。『ここに地終わり 海始まる』…そんな場所に。

ご自身の『あとがき』に、気になる言葉がありました。『幸福という料理は、不幸という俎板の上で調理されるものだと、私はいつも思っています。…』という書き出しです。不幸を意識した記憶はなく、いつもギリギリセーフの私のような人生には、本当の幸福は訪れないのでしょうか。この命題はもう少し作品を読みながら考えてみたいと思いました。小説作法のことならいいのですが…

これから美しい季節が訪れます。冬の前の宇宙の気配を、胸いっぱいに吸い込んで、少しの間、今を愉しみたいと思っております。もう避暑地からお帰りになられましたでしょうか。台風が近づいておりますので、充分お気を付け下さいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                          清 月     蓮

 

【64】『にぎやかな天地』宮 本  輝 著  上下巻

宮 本  輝 さま

お変わりなくお過ごしのことと思います。暑いと文句を言っておりましたが、秋めいてきますと、毎年のことながら急に心細くなります。寒いのは大の苦手なので、もう少しの間この気候が続いて欲しいものです。今日は『にぎやかな天地』を読み終えましたのでお便り致します。

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 涼しげな立山連峰の写真をお借りすることに致しました。この美しい田園からは、御著書『田園発港行き自転車』の明るい幸せな物語が浮かびあがります。山々は遠く何万年もの歳月を、こうして動じる事なくそこに在ります。富山の街は山々に見護られ、街の人々は沢山の恩恵を受けておられます。長い年月が育んだ目に見えない物も含めた命の波動は、山々の至る所から立ち昇り、発酵したり熟成したりしているのを想像できるこの写真をお借り致しました。

ここでは『発酵食品』が縦糸となり、主人公『聖司』が、勇気を振り絞り自分の道を定めてゆく過程において、考えたり迷ったりしながら決意を深めてゆく物語が描かれています。縦糸について書きますと文面が長くなりますので、中に沈められた自分なりに感じた「核」について書いてみたいと思います。

それは『時間』の為す、科学でも解き得ない天の、もしくは宇宙の『方程式』だろうと思っています。目には見えずとも最後のシーンで『聖司』が聴いた水のしたたりのような『音』こそ、その存在を信じ得る証だと感じています。目に見えるものしか信じられないとすれば、現代の私たちは今ある糠漬けも、鰹節も醤油や酢や味噌も享受できなかったでしょう。

この中にこんな言葉が出てきます。『天佑』…漢字二文字ですが、両方とも目には見えません。『天』とはどこにあり『佑』とはどのような現象でしょうか。

文字の理解は「天が助ける」との意味ですが 、ではどうやって…と疑問が湧きます。これは『聖司』が『祖母』から聞かされ続けていた言葉で、『人間の力ではもうどうにもこうにもならなくなったときにあらわれる天の助け』との意味です。人が懸命に考え、腹を据えて決意すると、そこに『天佑』が生じ、道を拓かせてくれる事は、実際に経験した人間にしかわかりません。『聖司』はこの物語の中で、本気で『豪華本』の制作に未来を託すと決意した途端、次々仕事が舞い込む事でそれを実感しました。もし、自分も本気で知りたいと思うなら、京都『三十三間堂』に赴き、あまたの『菩薩や風神、雷神』の前に佇んでみるのも良いだろうと思い、近々には訪ねてみたいです。私に何を語ってくれるかは 、決意の深さに因るのだろうと思っています。

決意には『勇気』が要ります。『えいや!』と自分に掛け声をかけて、組し易い『保険』を手放さなければなりません。そんな時、一番邪魔になるのは『嫉妬』という怪物です。『ねたみ、そねみ、やっかみの気持ち…』それを追い払うにはどうすればいいのでしょう。それは 、そんなものが入り込まない位の大きな愛情を胸に溢れさせる事だと思います。目に見えないものが自分を護ってくれていると信じられるなら、人のことを妬んだりしようにも、できないものだろうと思います。嫉妬が入り込む隙間が無いように隣の人々、縁した方々を愛して暮らすこと。そんなことを物語を読みながら深く感じました。

夏のお疲れが出ませんようお祈り致しております。世界が平和になり 、戦いが静まり 、目に見えないもの達が、にぎやかに私たちの周りに息づいていてくれるようお祈りしております。どうかごきげんよう

 

                                                                          清 月   蓮

【63】『オレンジの壺』 宮本  輝 著     上下巻

宮本  輝 さま

やっと九月に入りました。まだまだ暑い日が続いておりますが、いかがお過ごしでおられますか。八月はお忙しい事と思い、お便りを差し控えておりました。またこうして本が読める事を、嬉しく思っております。今日は『オレンジの壺』を読みましたので、お便り致します。 

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 蓮の季節は移りましたが、余りに美しい写真なので、またお借り致しました。泥の池から次々姿を現わす蓮の花は、この物語の『オレンジの壺』の仲間のようにも見えましたのでお届け致します。

『骸骨ビルの庭』だけでなく、ここでも戦争にまつわるお話を書いて頂き、とても感謝致しております。人に何かを伝えたいと思う「核」があり、それを物語にできるのが小説の凄いところです。いつもながら謎めいて、早く知りたい気持ちを抑えられません。読み手をおいてきぼりにせず、ぐんぐん物語の中に引っ張ってくださる力こそ、読む愉しみの真骨頂だと思っております。今回のヒロインは美し過ぎることも色っぽくもなく、親近感をもちながら落ち着いて読み終えました。この世で一番呪わしく残酷で何一つ良いところなどない《戦争の歴史》は、途切れる事なく現在まで続いています。何故なんだろうといつも考えます。

『戦争とは個人のエゴイズムが増殖した結果として生じるもののようです。…』登場人物『クロード・アムッセン』が書き送った手紙の形でこう書かれています。そして『個人のエゴイズム。この魔物に、私たちはいつも狂わされてきました。人間は、まだ一度も、自分のエゴイズムを超克したことはないようです…』ともあります。      現在の世界を見回せば至極頷ける言葉です。何か難しい思想、政治、主義、宗教の違いが原因なのかと考えがちですが、どんな場合でも結局突き詰めると、私利我欲にゆき着きます。自分の支持する思想こそ正しくて、他は封じ込めなければ気が済まなかったり、自分の信ずる宗教こそ唯一無二だと他を弾圧しようとするのはエゴイズムです。それに加えて、自分だけ冨み潤えば、人をどんな苦しめても戦争に加担する人達もいます。ですが、それを悲しい事と捉え、諦めるのではなく、もしも人々の心が、他者への愛情に満ちる日がくるなら、戦争を超えられる希望があると理解することもできます。

『オレンジの壺』には、はっきり書かれてはいませんが、世界中に蜘蛛の巣のように張り巡らされた組織…非暴力はもちろん、穏やかな権力への抵抗を誓い、権力の下で非道な扱いを受けている人々の味方になれる『オレンジの壺』のような組織…それを形成できたならば、どんなに素晴らしいでしょう。戦争の排斥はこんな地道な努力によるしかないと気づかせて頂きました。

ですが、現在なお、世界は差別と憎しみに満ち、相対する考えの人々を暴力により抑えつける行動は、ますます心と立場の分断を拡げています。子供達がそれに利用され、自爆テロを強要されるなど、言葉に出来ない悲惨さです。戦争で命からがら逃げて来た人々に対する排他主義は、結局自国をも滅ぼすことにも気づいていません。このような世界情勢を『オレンジの壺』を書かれた43歳にして、早くも見通されていた先見には、こうべを垂れる思いが致しました。世界が平和で、人々が誰もやさしい気持ちをもつ日が来ることを、そして粘り強く共生できる道を探し続ける事を、強く願って止みません。

これから、また平穏なご執筆の日々が続くことをお祈り致しております。秋めいた朝夕に少しほっと致しますが、まだまだ日中は気温が高いようです。ご自愛くださいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                    清  月    蓮

 

【62】『こうもり』 宮本  輝 著     『幻の光』に収録

宮 本  輝 さま

ますます暑さが厳しくなっております。札幌に住む姉まで、今年は耐えられない暑さだと申しておりました。そちらは如何でしょうか?  関西では今朝、少し涼しい風が吹いて、一息つけた気が致しました。ですが、日中の暑さは嘗て経験したことがない程です。今日は短編『こうもり』についてお便り致します。

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 この写真は『ランドウ』と『娘』が消えた堤防の上の、海と空のようです。暮れかけた空間には不吉な『コウモリ』が低く飛び交い、不気味さが広がり、暗い雲は人の心に巣食う「性の不可思議」や「止められない衝動」のようです。昼間の明るい青空に、突如 覆ってくる得体の知れない暗雲。この中に出てくる性のイメージと重なりましたので お借り致しました。

短篇『こうもり』には『耕助』の高校生の頃と、結婚した後の推移が交錯しながら描かれています。

夏の盛りに『ランドウ』と『耕助』が 可愛い『娘』を探して行き着いた街は、犬猫の屠殺場があり、工場のクレーン車が大きな音をたてていました。密集した住宅街には、傾きかけた家が並び、錆びたトタン屋根のバラックも見えます。そんな場所に住む『娘』は、『おきゃんな写真』の顔に加え、実際に見ると、かすかなおびえや羞恥が滲む表情をしていました。『ランドウ』は、全身汗みずくで、直前にはラーメンを啜り、その臭いを全身から発していたでしょう。堤防の向こうの海は、油だらけの汚い海です。ロマンの要素はひとかけらもなく『ランドウ』は鷲鼻でそれほど美男子でもなく、お金も持っていません。でも、堤防の向こうから『娘』の助けを求める悲鳴も聞こえず、ただ時間だけが過ぎてゆきます。

この時、高校生の『耕助』の胸を襲った突然の衝動はなんだったのでしょう。自分には女の友達はまだ一人もいない。好奇心が疼き、見知らぬ世界に対する淡い期待と理想が、この瞬間、見事に裏切られてゆくのを知ります。だから堤防のこちらで一人待つ間に『ランドウ』の『ドス』で、むちゃくちゃにカバンを切り裂き、一人家に帰ったのです。あんな可憐そうな娘を手なづけたであろう『ランドウ』への憎しみが、あとさきを考える余裕もなくし、報復を恐れない何かを『耕助』にもたらしました。

数十年後… 『耕助』は結婚しているのに、秘密で『洋子』との関係をもってしまいます。『洋子』は29歳。微妙な年齢。未来のない関係がわかる歳です。そんな『洋子』は『耕助』と京都で会うたび、何故か『詩仙堂』の庭を見たがります。『…うん。もう辛抱でけへんとおもう』     こんな自分の体の奥深くの無意識の性の叫びと闘っていたのでしょう。

詩仙堂の庭で、風に巻き上げられた落ち葉は、妖しい渦を作り、空遠くに吹き飛ばされたり、いつまでも回りながら空中を彷徨っています。その落ち葉の乱舞は、まるで高校生の夏に見た『こうもり』のようです。『耕助』は、自分が今『洋子』にしていることは、高校生の『ランドウ』と変わらないことに、やっと気づくのです。そして今日、『洋子』は、高く見えた寺の土塀を、一気に跳び越え『耕助』の元から去ったのです。

性の不思議は、相手を愛し、求める故の清らかで自然な行為でありながら、もしそこに相手の幸せを願う心と決意がなければ、あの『コウモリ』のように、鳥でも哺乳動物でもない、顔を背けたくなる醜い生き物の姿と化すのです。自分本位な性の行為は、誰も幸せにはしないでしょう。

七月も最後の週です。あまりの暑さですので、私も暫く家を離れます。九月に、またお便りをさせて頂きます。どうかお元気で、夏を乗り切って下さいますよう、お仕事が順調に進みますようお祈り致しております。どうかごきげんよう

 

                   清  月   蓮

 

 

 

【61-2】『睡蓮の長いまどろみ』 宮 本   輝  著  《下巻》

宮 本 輝 さま

暑く長い夏が始まっています。今年は春から一気に真夏の暑さです。汗をかかなければ、身体から毒素は抜けないだろうと、昼間はエアコンを点けないで過ごしておりますが、たまらなくなると、近くの涼しいショッピングモールを、ただ歩くために訪れたりしております。今日は『睡蓮の長いまどろみ』《下巻》についてお便り致します。

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写真を見た瞬間、この美しい花が 清月蓮 と名付けられた蓮の仲間かも知れないと思いました。何年か前『睡蓮の長いまどろみ』を読んだ時の、強い憧れは今も続いております。花芯には既に実が備わり、花の命の核は『因果倶時』の所以をくっきりと見せています。こんなに自身の思い入れ通りの写真に驚きながら、感謝してお借り致しました。

『蓮と睡蓮』の違いは、作中の『美雪』と同じように、言葉のイメージから、私も勘違いをしておりました。この物語に依り明らかになった事柄は、他にもう一つあります。『川三部作』で少し気づき『錦繍』でヒントを得た気分になり、とうとう『睡蓮の長いまどろみ』まできてしまいました。それは『宿命』についての《謎》です。

『生まれながらにもつ容貌、性格、体力、才能、運、それに嗜好』これらが厳然と生まれた瞬間に既にある限り、一人一人に生まれる前から『宿命』と言えるものも備わっているだろう事は、認めざるを得ない真理です。では、生まれる前とはいつでしょう。やはり「過去生」と呼ぶしかない時間軸において、既に備わっていたのです。  けれども、仮に現在、貧乏や、病いや、不運や、悩み苦しみなどに苛まれ続けているとして…それを「過去生」の行いが悪かったからだと捉えるとすると、責任も自覚もない事への腹立ちを感じて、恨みすら抱きます。

結果、捨て鉢になったり、諦めて投げ出したりするかも知れません。何故なら本人は「現生」において、「悪」と言われる事を成した覚えはないからです。心から善良な生き方をしてきたと感じています。ですが、自分で正しいと思う意識の底に「過去生」から蓄えられた「無意識」が沈んでいるのです。   それは「現生」において「宿命の核」のように命に刻まれて生まれてきているのです。それをどうやって割り、砕き、ねじ伏せていったのかが、ここに物語として著されていたのだろうと思います。 

《三千人の私を生きる》という『美雪』の言葉が出て来ます。生きる支えになった言葉です。これは、仏法の《一念三千》に通じる法華経の哲理で、命の中に三千もの、選択、決意、可能性を孕んでいる事を指し、それが自分の意思と行動により、ダイナミックと言って良い位に烈しく、命を新たに「転換」してゆく力を表す言葉として、自分の中で動き出すのです。

不幸な『宿命』の毒薬を、幸せへの秘薬に変える方法。それは、自分の『宿命』の原因を探ろうと、過去から繋がる現在の呪縛に囚われるのではなく、未来に向けて、新しい《因》となるような自分を見つけ出し、未来の《果》を創り続ける事なのです。

蓮に教えられる『因果倶時』とは「今日から明日へ」生きること…未来に幸福をもたらす「因」を、今、作ろうと心に決めた瞬間、そこに同時に「果」が俱わっているのなら「宿命を変えよう」「未来を変えよう」と決意した瞬間に、もう結果はいのちの中に生まれていると言う事でした。この事をを知った時の幸せな気持ちは、少しも薄れず胸にあります。気づかせて頂き『睡蓮の長いまどろみ』は、大きな転機をもたらしてくれました。感謝の気持ちが溢れて、静かにページを閉じました。

 

昨日、西宮まで出かけましたが、行き帰り、車を運転しながら、なんと合計四台の救急車に道を譲りました。多分、この暑さで熱中症の方が続出されておられるのかもしれません。地球は人間の所作の傍若無人さに怒りを持っているかのようです。ご自愛くださいますように。どうかごきげんよう

 

                                                                          清  月   蓮

 

【61-1】『睡蓮の長いまどろみ』 宮 本  輝 著 《上巻》

宮 本  輝 さま

暑くて寝苦しい日が続きますが、お元気でおられますでしょうか。九州北部を襲った豪雨による土砂崩れは、夥しい流木を橋桁に絡ませ、濁流が民家を襲いました。目を疑うような惨状に現実感を失う程です。被災地に日常生活が戻る日までまた長い時間がかかりそうです。自然災害と闘うだけでもとても大変なのに、国同士、人間同士が戦うなど、本当に愚かなことです。今日は『睡蓮の長いまどろみ・上巻』についてお便り致します。

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 『睡蓮の長いまどろみ』を読み始めて二日後に、この写真に出逢いました。いつも、読み方の順序に秩序がなく、思いつくまま手に取りますのに、本当に不思議なタイミングに驚いております。写真は真っ白な花びらですが、花芯には愛らしい紅色が隠れていそうで とても惹き込まれます。この写真に『父・庄平』の『釣り道具入れ』に隠されていた『女雛』のイメージが浮かびましたので、お借り致しました。

しみじみ感心致しますのは、この題名『睡蓮の長いまどろみ』です。これ以外ないと言う題名をいつも付けられるのは、本当に天才的であられると思います。泥の中で一年の大半を過ごし、夏の初めのたった四日間の為に、蓄えられたエネルギーや、美しさの全てを天に向かって開きながら、その中に既に《実》も備えているこの花は、昔から様々な思惟の対象になりました。確かに、冬の間は「まどろみ」というしかなく、これまで過ごした『美雪』と『順哉』の上に流れた四十二年の月日もそうだったのかと繋がってゆくように思います。

《上巻》を読んでいる内は、どんなに『美雪』の気持ちを探ろうにも、我が子『順哉』をおいて、家を出、新しい人生を探すなど、同感も同情も出来ないと思っていました。たとえ『義父』とのおぞましい《事情や密約》があったとしてもです。それに『順哉』にしても、結婚して、よく出来た『妻・津奈子』や息子までいるのに、何故『秘密のアパート』が必要だったのでしょう……野暮ですね。   小説は自分の中で、現実味が結べなくとも、深い秘め事があるからこそ、読む愉しみに浸れます。映画や観劇、コンサートや古典芸能にしても、自分以外の観客がすぐ側にいる訳で、一人っきりでその世界に浸り切る事は出来ません。小説世界に自分を立たせて、好きなように酔いしれることができるのは、読書の最大の愉しみです。妖しくも美しい…とても好きな物語です。

今回初めて気付いたのは『上巻』には、人間の《性》が、少し常軌を失したかのように、何故あそこまで描かれているのだろう…と言うものでした。男と女の交わり以上の、淫靡 過ぎる性の倒錯をここに著されたのは、多分、人間は実の母親によって育てられなければ、こんな性的嗜好が生じることもある ということなのでしょう。また愛していても妻と別れなければならなかった『父・庄平』や、知らぬ間に家族と別れさせられた『千菜』の上に、振り払えない力で、のしかかったのは一体何だったのでしょう。その力に抗しきれず『千菜』のように死を選んだり『順哉』のように、善き友を得て適切な言葉を受けることができ、生きる力を保ち続ける事もあるのです。『順哉』と『今井』の男の友情には、羨望に近いくらいの清潔感を抱きました。『今井』にちょっと心惹かれてしまいます。 

二人が訪ねた『羅臼港』にいた『カラス』は、細い無線アンテナの先に止まり、無数の槍のような雨に全身を打たれながら、微塵も動かない。そのカラスを『繊細でありながら不羈(ふき)でもある…』と書かれています。この意味は、鈍感で感じていないのではなく、精緻なところにまで強く影響を受けたとしても、それに囚われることなく、何に束縛されることもない…と言うくらいの意味だろうと思いますが『順哉』が、そんなカラスの姿を見て、人間の生き方にも通ずると感じたであろう場面です。私もしっかり心に留めておきたいと思います。

来週は《下巻》を読みたいと思います。それに致しましても、今年の梅雨からの異常な暑さや、かつて無いくらいの雨の激しさは、昔、住んでいた東南アジアの熱帯雨林気候を思い出させます。地球も人々も、なんだか喘いでいるように感じますのは、私の思い過ごしでしょうか。ご自愛くださいますように。どうかごきげんよう

                  

                                                                  清 月    蓮