花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【52】『蝶』宮本  輝 著  『星々の悲しみ』に収録

宮本  輝 さま

季節は流れる雲のように過ぎてゆきます。気温が上がるにつれ体調が上向いていくのを感じております。もう初夏になりました。今年の春は沢山の筍を頂けました。瑞々しい大地の恵みに雨が欠かせないようです。今日は短編『蝶』を読みましたのでお便り致します。

f:id:m385030:20170506103930j:plain

 『蝶』を読んでいて、好きだったこの写真が浮かんで来ましたのでお借り致しました。命の源から離れ、既に地面に落ちているのに、なお美しくまるで生きているようです。この花たちは、風に転がったり、吹き上げられたりして美しい舞を見せてくれるかもしれません。理髪店『パピヨン』の壁一面の『蝶の標本』も、電車の振動で生きているように翅を震わせます。

『蝶』の読後感を書くのをグズグズしておりました。何故ならこの作品は、短くとも私にとって、とても大切な問題を孕んでいたからです。極 普通に読むと、悲しい結末が暗示されています。孤独な理髪店『パピヨン』の『主人』は、自分の嗜好に従い、欲望を止められず、次々『蝶』を捕獲して自らの満足の為に、標本にしていたと読めるからです。そして、その罰として、彼は採集の旅の何処かで命を落とし、二度と帰ることはない…しかも、電車が高架の真上を通る深夜に、標本にされた蝶たちが一斉に震え出し、恨みの声なき声を上げている結末を読みとる事も出来るからです。

人が幸せに生きる為には、決してしてはならないことがある…というのは、宮本輝さんの他の作品にもたくさん見受けられます。幸せになる為の警告と受け止められる人の「死」も描かれています。ですが、私はずっと考え続けたにもかかわらず、どうしても『パピヨン』の主人が、そんな罪に当たると思うことが出来ませんでした。既に持っているのに、同じ『蝶』を何匹も集めたことには、とても憤慨しましたが、毎日、夜遅くまで『蝶』の標本の埃を払い、手入れをして愛しんでいた様子が描かれています。理髪店の仕事も丁寧で、人柄も良さそうで、とても親切です。『パピヨン』の主人は、罰を受けたのでしょうか。それは彼の行為が「因」となった故の過ちの「果」なのでしょうか。    そんな事を考えながら、またこんな言葉も浮かびます。  《現在の因が未来の果を生む》…他の作品の中で、教えてくださったこの哲理がとても好きで、心にいつもあります。書くことをグズグズしておりましたのは、この作品から『主人』の決定的な肯定を表す言葉を見つけられなかったからです。そこで…私なりにお話の続きを想像を致しました。こんなお話です…

パピヨン』の主人は『蝶』の採集旅行の途中である山奥に向かいます。その時、朝陽の降り注ぐ葉陰に、頼りなげに揺れる幻の蝶を見つけました。美しいその色は、いつか夢にまでみたものです。けれど、蝶に見えたのは、ひとりの娘の着ていた上衣の短めの袂でした。驚いて近づき、彼は娘を見たのです。その瞬間、娘の横顔は蝶の翅より透明な輝きで彼を捉えました。娘の話す声は、物言わぬ蝶の標本からは、けっして得られない沢山の発見を、彼の心にもたらしました。自分の仕事も忘れ、自分の家に帰る事も忘れ、彼はその娘が一人で、懸命に額に汗していた仕事…その地方に伝わる染色の仕事…に心を奪われ、手伝わずにはいられなくなります。それは草木から糸を染めるとても大変な力仕事です。今まで、この世で最高に美しいと思い込んでいた『蝶』の標本の上にあった鮮やかな色や形が、その織物に現れていたことに息をのみます。その時、やっと気づいたのです。蝶を捕獲するよりも、自然の美しさを源にして、何か役に立つ物を創造することにこそ価値があるのだと言うことに。   蝶の生死と同じく、人間の生死も、危うい闇から明るい場所へと、絶えず彷徨っています。いつどこで闇が明けるかは、その人の命に必ず刻まれています。人を愛することや 友人を大切に思うこと、仕事に忠実な努力をして暮らしている人には、それに気づくチャンスが、必ず宇宙から降りてくる。この短編を読み『パピヨン』の主人も、きっとそうであったのだと信じていたいと思いました。

連休中は如何お過ごしでおられましたでしょうか。夏の暑さや寒いくらいの日が交互にやって来て、安定致しませんし、世界も騒がしく、不安に襲われることがありますが、努めて冷静にいたいと思っております。お元気でお暮らしくださいませ。どうかごきげんよう

 

                                                                       清 月   蓮

 

 

星々の悲しみ (文春文庫)

星々の悲しみ (文春文庫)