【13】『さざなみ』 宮本輝著 『胸の香り』に収録
宮本輝さま
梅雨の空を見上げますと、初めてお会いした折、手が震える本態性振戦のご病気のことをお伺いしたのを思い出します。長年の万年筆でのご執筆は想像もできない負担を手に及ぼしていたのでしょうが、この時期、どうかお大事になさいますように。今日は『胸の香り』の三篇目『さざなみ』を読みましたので、お便り致します。
短いお話ですが、ここに登場する『真須美』に、心を奪われます。時折、夜空を見上げて、今頃 彼女はどうしているだろう…などと思うことがあります。日本の真裏のポルトガル リスボンに、彼女は亡き夫の足腰の弱った両親と、お腹の赤ちゃんと共に住んでいます。彼女に心を寄せずにはいられません。『薄い眉と鋭い眼光』とは「さりげない振る舞いと強い意志」に他ならないと思いました。ヨーロッパに一度だけ行ったことがありますが、張り巡らされた石畳はたいそう脚に負担をかけます。其処に生きる人々は毎日この石畳を踏みしめ、人波をかい潜りながら暮らしているのです。
ポルトガル語を習い、働く決意をして、路面電車の線路をゆっくり横切る彼女は何よりお腹の子供を大切に思い、まだ息子の事故死の失意から抜け出せない彼の両親のことを考えています。なんとか食欲を取り戻し、生きる力を蘇らせてあげたいのです。 日本で『私』に出会った時から『真須美』は、相手に求めることをしない人でした。そんな彼女が初めて他者に求めたのは、ミルクしか口にしない両親に、好物の蒸し鶏を『口をこじ開けてでも、食べさせる』ということでした。日本から愛する人の故郷に渡り、一緒に過ごしたのは1年と少しだけ。それでも彼女がリスボンから去らない決意をしたのは、お腹にできた赤ん坊の命の鼓動を感じた瞬間だったのでしょう。愛の「紛れない結末」は、『真須美』が母になったことでより強く確かな道を選んだのです。 自分の心に刻みつけたくて、『私』に知っていてもらいたかったのでしょう。 こうして荒波を1つづつ『さざなみ』に変えて、石畳の道を今も『真須美』は、逞しく力強く歩いているのです。
この写真はとても異国情緒を誘ってくれます。『真須美』がいつの日か、こんな花を、庭で育てる日が来ることを願ってお借り致しました。まるで『真須美』のような優しい色と、美しい姿が伝わりましたでしょうか? またお便りさせて頂けますように。どうかごきげんよう。
清月蓮