花の降る午後に

~宮本輝さんへの手紙~

【41】『いのちの姿』 宮本輝著

宮本 輝さま

 

またお便り致します。ご迷惑でないことを念じつつ書いています。こんな一方的なお手紙は、あり得ないと思うこともありますが、貴方の作品が、私を突き動かしている気が致します。遠い日々を思い出しながらの思い込みばかりで、いつも申し訳ありません。今日は『いのちの姿』を読みましたので、お便り致します。  

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 この写真を見た瞬間に、貴方のお書きになった『いのちの姿』が浮かびました。生まれては散りゆく山茶花のひと花ひと花が、それぞれの形になって命を燃やし、時が来れば地に落ちてゆきます。死してなお美しく、真上の枝で若い蕾が開くのを見守っているように見えます。『いのちの姿』にこのような営みの「時」を感じます。どうしていつもぴたりの写真が目の前に現れるのか、不思議に思いながらお借りしております。

 

硬い表紙の、単行本の三分の二 程の大きさと厚みのこの本は、私を深い思惟へと誘ってくれました。特別な一部の人しか読むことのできなかった小冊子『桑兪』は、『京都・和久傳』の女将さんのたっての願いで、200711月より刊行されました。宮本輝さんがここに執筆されていることに気づかれた「集英社の村田登志江さん」が、一冊にまとめてくださり、こうして読むことができ、とても感謝しております。

エッセイは、ご自身の胸の内をみせて頂ける貴重なもので、直截な故に胸を打ってきます。男らしい文章だなぁと思います。重くて深い内容なのでエッセイというのがしっくりこないのですが、ご本人がそう表記されていますので倣いました。   思いますに、小説が一つの形を現すまでには、胸の中にある「核」のようなものが、ある時、ポコっと文字になって現れ、登場人物が生まれ、物語が動き出すそうですが、その「核」をなすものは、エッセイや短編の中で、その「時」を待っているのだろうと思っています。ここに収められた14篇のエッセイは、作家というお仕事が何故貴方のところへやって来たのかに納得できるものでした。

『悪いことが起こったり、うまくいかない時期がつづいても、それは、思いもかけない「いいこと」が突如として訪れるために必要な前段階だと信じられるようになったのだ。』

人に理解してもらえないほどの『パニック障害の苦しみの末に掴まれた実感は、私達の強い味方になって、これからのどんな危機をも乗り越えられるような勇気を掴んだ気が致します。

もうひとつは、このエッセイ集の最後『土佐堀川からドナウ河へ その二』にあります。

目に見えないものを確信することによって現実に生じさせる現象というものを、私は信じられるようになっていたのである。』

この言葉については、目に見えないものを信じるという意味だけでなく、確信する信じて疑わない『心の力』が信じたことを現実に『現象』として、目の前に現わすことができるという意味です。ご自身が体験されたことからの一文は、力強い説得力を感じました。  疑えばどんなことでも疑いは生じます。考えれば考えるほど不安が広がり、疑問に苛まれ、やがて諦めへと流れます。  夜の闇の中で無数の星々を眺める時、宇宙の中の芥子粒のような自分の「生」に気づきます。そして広大な宇宙に、厳然と存在する法則のひとつの啓示のように、自分に降ってくる瞬間というのを体験されたものと感じました。このエッセイ集はゆっくり味わって、自分なりに様々に思考して、人それぞれに受け取りながらも、『心の力』を高めてゆける一冊でした。エッセイ『兄』の「最後の呼びかけの声」は、あなたの体からほとばしり出た血脈の声でした。もう会わなくてもいい。貴方のたった一人の胸の中の「お兄様」はきっと穏やかに健やかに暮らしておいでなのですから。

二月はすごいスピードで過ぎ去るような気が致します。去ると思うと寒い冬にも未練が生まれ、むしろ寒さが愛おしくなります。今年はインフルエンザの羅患数が百万人を超えたそうで花粉症も始まりました。ご自愛くださいますように。どうか ごきげんよう

 

                                                                             清月